2013/01/18

4 吾輩はてんとう虫である。名はまだない。

 ナンフェスのシンボルはてんとう虫です。山田武彦氏の手になるこのシンボルはあちこちで増殖を始めているようです。その第1号は、東京女子医科大学IBDセンターのスタッフバッチです。そのバッチはセンター外の人々にも好評で希望が寄せられているとか。
 このナンフェスのシンボルを商標登録しようとして調べましたら実にたくさんのものがありました。みなかわいらしい、そしてシンボリックなもの、個性的なもの、擬人的なもの、いろいろありますね。
 さて、今回の標題は、かの夏目漱石の「吾輩は猫である」から拝借したものですが、その心は是非これに名前をつけてみたいと思ったからでした。いかがでしょうか。
 ずっと昔、パンダが上野に初めて来た時に名前の公募がありましたね。生きものだけではなく、建築物や場所にも本来の名称の他に愛称があります。

 それでは名前を巡るお話にちょっとお耳を、いや目を拝借します。
 新聞投書欄にあったお話です。名前でからかわれていやだという投書に対するものとして、「明彦」と書いて「てるひこ」と読む方が書かれていました。この方も小さい頃から「照る照る坊主照る坊主、あーした天気にしておくれ!」とからかわれてこの名前を付けた親に対してどうして?との思いが消えなかったそうです。ですが、やがて成人し、教員となった明彦さんは、定年までの30数年間、運動会や遠足などの学校行事で一度も雨にあたって延期となったことがなかったのでした。定年後に振り返った時、「てるひこ」の恩恵を感じたというものです。
 田中角栄なる政治家の記憶も乏しくなりつつありますが、彼が「今太閤」として学歴がなくとも日本の総理大臣となった頃に生れたある子どもに、某田中さんちの両親は「角栄」と名付けたのでした。時が過ぎゆき、ロッキード事件で田中角栄さんが逮捕されるに及んでこの少年もいじめの対象となっていったのでした。耐えきれなくなった彼は家裁に改名を願い出ました。案外とあっさりと認められたのでした。

 「差別戒名」をご存じでしょうか?東京学芸大学書道科の畏友、橋本栄一さんの研究テーマの一つでもありますが、被差別者が死んでもそうとわかるように戒名にまで入れ込んだものです。何ともおぞましい話ではありませんか。
 日本人が好む「忠臣蔵」の主役である赤穂浪士のお墓は泉岳寺(東京)にあります。仇打ちに至る苦労や忠君の誉れも高く「赤穂義士」とも称されますが、彼らの戒名には全員に「刃」が用いられているとのことに何か釈然としないものを感じます。

 中国での話。瀋陽市では、名前が不明な孤児の姓はすべて「瀋」とする規則があります。名に使う文字も決まっています。2001年なら「中○」というように必ず「中」を用い、翌年だと「華○」というように。広州市では孤児の姓は「広」だけ、大連市では、「趙」「銭」「孫」「李」の4種類だけが使用可能となっています。

 台湾での話。台湾人は運が悪い、失恋した等で占師の勧めもあって簡単に名前を変えるようです。親からもらった名前という観念がないのです。が、愛のために姓を変えた女性の話題がありました。女性は施さん、そのお相手は鄭さん。
 17世紀の台湾の英雄 鄭成功という人と清朝の将軍 施琅とは不倶戴天の敵でしたから、鄭成功への思慕があついが故に今でも台湾では「鄭」さんと「施」さんの結婚はご法度と言います。
 そこで施さんは裁判所に母方の姓「林」に変えようとしたところ裁判官は「二人の幸せのために」認可したというものです。

 ところで、わが子に「悪魔」と名付け、役所に届けたところ受理してもらえなかった事件をご記憶でしょうか。この一件に対して言語学の田中克彦(一橋大名誉教授)さんが寄せた一文(「悪魔くんに思う」出典:岩波の「図書」の巻号は不明ですいません)が印象的でした。
 田中さんは、日本でせっかく「悪魔」くんが誕生しかけたのに父親が取り下げたのは、「日本社会における命名に際しての圧力がいかに大きいか」、「言語意識の特有性」を浮き彫りにしたと喝破しているのです。

 具体的には、モンゴル人の名づけから論拠を見出しています。例えば、「ネルグイ」さん。訳せば、「名無し」だそうです。何とも不思議な感じです。「フンビシ」という例も。これは「人でない」ということ。他にも、「誰でもない」、「うんこまみれ」、「悪い娘(ただし男性の吟遊詩人の名)」など。
 なぜそんな名前なのでしょう。田中さんは、「自然がきびしく、乳児の死亡率の高かったかつてのモンゴルでは、どんな魔物も決して近づいたり、ふれたりする気にはならないような名にしておこうという親の思いが込められていたのである」と解説します。
 モンゴルでも「チュトグル」つまり「悪魔」くんがいるのだそうです。田中さんの主張は以下の通りです。
 今回の件は、命名行為の著しい規範性と同調性である。名前はまずあまり変わっていてはいけない。社会的な期待と規範に合致しなくてはいけないという無言の圧力である。
 社会の期待と規範に合った名とは、いわゆる「いい子ちゃん」名前、すなわち、道徳に合致し、徳目を表示した名である。名というものは、モンゴルの例が示しているように、「いい名」が不幸を呼んだり、「悪い名」が守りになったりするという神秘的なものだ。それを日本では徳目にあわせて自己規制するように求められるから、ますますハンコで押したような非行性的で無性格なものになって行く。
 このことは、あらかじめ「いいことば」と「悪いことば」をきめておき、悪いことばは使わないようにしましょうという、お役所ふう差別語狩りのもう一つの面である。悪魔くんは、「おりこうさん」しか許さない、日本的サベツの網に敏感にとらえられてしまい、ついにその誕生を全うすることができなかったのである。
 
 はてさて、わがナンフェスの「てんとう虫」君の名前にはどんな物語が生まれるのでしょうか。