2013/01/25

5 奈良大仏の公慶(こうけい)さんとシュリーマン自伝(前篇)

「シュリーマンみたいな人だなぁ。」これが公慶という名の僧侶の大仏様復興、大仏殿建立に纏まつわるTVを見ての感想でした。東大寺大仏殿には何度も足を運びましたが、その歴史には注目したことはありませんでした。現在我々がお参りできるのは、公慶さんのお陰であることをこのTV番組で知りました。そして、シュリーマンがなぜか想起されたのでした。シュリーマン(1822~1890)とは、トロイア戦争(トロイの木馬で有名)のお話を7歳のとき聞き、しかもそのお話を真実と信じ、いずれ発掘してみせると言って、後年本当に発掘して歴史的事実を証明した人物です。

 まずは公慶さんのお話から。出家した公慶は14歳の時に、あちこちが傷み、しかも野外で雨に打たれる大仏様を見て涙します。自分には傘があるのに、大仏様にはない、と。いつか大仏様を修復し、大仏殿を建立して雨が降っても濡れることがないようにしようと、心に秘めたのでした。そして公慶37歳の時(1684年)、江戸幕府に願い出て大仏様修復のための寄付を集めることを許されます。全国行脚に出た公慶はたとえ少額でもいいからと人々に対し寄付を集めに歩き回ります。これを「勧進」と言います。大仏様修復の一念に勧進して歩く姿に人々も動かされ始め、お金が集まってきます。

 1692年ついに大仏様の修復を終えることができた公慶は、さらに大仏殿建立のために勧進し続けます。粗食に徹し、「臥して寝ず!(横になって寝ないこと)」の構えの公慶は無理がたたり、からだを壊してしまいます。が、それでも勧進し続けた結果、1709年には大仏殿建立が成し遂げられました。しかし、その日を見ることなく公慶はその4年前に亡くなってしまったのでした。
 公慶堂とは、公慶が研鑽を重ねた寓居であり、公慶堂からは大仏殿が眺められるように「道」が出来ているのです。これでTVは終わりました。

 さて、シュリーマンとはどんな人物だったのでしょうか。私がシュリーマンを知ったのは、岩波文庫「古代への情熱―シュリーマン自伝―」(昭和47年の第27刷)によってでした。この文庫の帯には、「トロヤ戦争の物語を読んだ少年が美しい古都が地下に埋もれていると信じその発掘を志す。努力の年月を経て彼の夢は実現してゆく。」とあります。
 幼い頃に読み聞かされた物語、ホメロスの叙事詩「イリアス」で綴られたトロイア戦争、その古代の城跡はきっとどこかに埋もれていると信じ込み、いずれ発掘してみせると決意した少年は、勉学に励みに励み、商売で大成功をおさめ、成した財を糧についにトロイアを発掘してしまったのでした。

 このことは単に発掘したにとどまりません。ホメロスの叙事詩が作り話ではないこと、ギリシャ文明より古い文明はないと考えられていたがそうではないこと、考古学上の大きな発見といえること、を指摘できます。当時のいかなる学閥も持たず、しかもほとんど独学で成し遂げたといえます。
 その後は、ミケーネ文明の存在も発掘してしまいます。在野にあってこの華々しい発見の連続はシュリーマンの名を世界に轟かせたのでした。

 公慶さんの話とシュリーマンの共通点は少年時代の思いを持ち続けて、努力の末についに成し遂げたというところでしょうか。

 「古代への情熱―シュリーマン自伝―」に戻します。7章から成るこの書は厳密な意味でいわゆる「自伝」ではありません。この第1章、少年時代と商人時代(1822-1866)は、シュリーマンが60歳の時に書いたものですが、残りの6章分はシュリーマンの死後(1891年)、「未亡人の委託によって第三者であるブリュックナーがシュリーマンの諸著書のなかから巧みに引用して、彼の学問的業績とともに、彼の人間としての成長をしめしたもの」(訳者村田数之亮)なのです。
 そして、もともとこの第1章は、シュリーマンの著書「イリオス」(1881年刊)のはしがきなのです。この「イリオス」は「発掘報告的な学術書」の性格を持つようです。そうした本になぜ「自分がへてきた波瀾にとんだ生涯をしみじみと懐かしそうに回顧したもの」を含めたのでしょうか。
 訳者村田さんは、シュリーマンには単なる回顧を超えた積極的な意図があったとみています。当時、シュリーマンは事業で大成功をおさめ、その財で大掛かりな発掘を仕掛け、しかも大成功をおさめていましたが、一方で多くの根強い反対者も抱えていました。そのため「自分の学問への情熱と苦行とを示して、自分の学問的信念のなみならぬ深さと根底とを知らせようとした」のではないか、と。

 14歳で学校を終えたシュリーマンは働き始めますがそれはもう苦難の連続で、しかしトロイア発掘の夢は捨てず、寸暇を惜しんで学び続けます。最終的には10数ヶ国語を自在に操れるようになり、商売も成功してゆく様をこの第1章で、41歳で一切の事業から手を引くまでが描かれているのです。
 1871年から73年にかけてトロイアの発掘に成功したシュリーマンは大きなミスを犯してしまいます。それは、発掘最終年度に出土遺物の目玉「プリアモスの財宝」をトルコから持ち出してしまったのでした。トルコ政府から訴えられたシュリーマンはもはやトルコ領土内での発掘は不可能となってしまいました。そこでシュリーマンが次に目を付けたのがオリンピアの発掘でした。
 

2013/01/18

4 吾輩はてんとう虫である。名はまだない。

 ナンフェスのシンボルはてんとう虫です。山田武彦氏の手になるこのシンボルはあちこちで増殖を始めているようです。その第1号は、東京女子医科大学IBDセンターのスタッフバッチです。そのバッチはセンター外の人々にも好評で希望が寄せられているとか。
 このナンフェスのシンボルを商標登録しようとして調べましたら実にたくさんのものがありました。みなかわいらしい、そしてシンボリックなもの、個性的なもの、擬人的なもの、いろいろありますね。
 さて、今回の標題は、かの夏目漱石の「吾輩は猫である」から拝借したものですが、その心は是非これに名前をつけてみたいと思ったからでした。いかがでしょうか。
 ずっと昔、パンダが上野に初めて来た時に名前の公募がありましたね。生きものだけではなく、建築物や場所にも本来の名称の他に愛称があります。

 それでは名前を巡るお話にちょっとお耳を、いや目を拝借します。
 新聞投書欄にあったお話です。名前でからかわれていやだという投書に対するものとして、「明彦」と書いて「てるひこ」と読む方が書かれていました。この方も小さい頃から「照る照る坊主照る坊主、あーした天気にしておくれ!」とからかわれてこの名前を付けた親に対してどうして?との思いが消えなかったそうです。ですが、やがて成人し、教員となった明彦さんは、定年までの30数年間、運動会や遠足などの学校行事で一度も雨にあたって延期となったことがなかったのでした。定年後に振り返った時、「てるひこ」の恩恵を感じたというものです。
 田中角栄なる政治家の記憶も乏しくなりつつありますが、彼が「今太閤」として学歴がなくとも日本の総理大臣となった頃に生れたある子どもに、某田中さんちの両親は「角栄」と名付けたのでした。時が過ぎゆき、ロッキード事件で田中角栄さんが逮捕されるに及んでこの少年もいじめの対象となっていったのでした。耐えきれなくなった彼は家裁に改名を願い出ました。案外とあっさりと認められたのでした。

 「差別戒名」をご存じでしょうか?東京学芸大学書道科の畏友、橋本栄一さんの研究テーマの一つでもありますが、被差別者が死んでもそうとわかるように戒名にまで入れ込んだものです。何ともおぞましい話ではありませんか。
 日本人が好む「忠臣蔵」の主役である赤穂浪士のお墓は泉岳寺(東京)にあります。仇打ちに至る苦労や忠君の誉れも高く「赤穂義士」とも称されますが、彼らの戒名には全員に「刃」が用いられているとのことに何か釈然としないものを感じます。

 中国での話。瀋陽市では、名前が不明な孤児の姓はすべて「瀋」とする規則があります。名に使う文字も決まっています。2001年なら「中○」というように必ず「中」を用い、翌年だと「華○」というように。広州市では孤児の姓は「広」だけ、大連市では、「趙」「銭」「孫」「李」の4種類だけが使用可能となっています。

 台湾での話。台湾人は運が悪い、失恋した等で占師の勧めもあって簡単に名前を変えるようです。親からもらった名前という観念がないのです。が、愛のために姓を変えた女性の話題がありました。女性は施さん、そのお相手は鄭さん。
 17世紀の台湾の英雄 鄭成功という人と清朝の将軍 施琅とは不倶戴天の敵でしたから、鄭成功への思慕があついが故に今でも台湾では「鄭」さんと「施」さんの結婚はご法度と言います。
 そこで施さんは裁判所に母方の姓「林」に変えようとしたところ裁判官は「二人の幸せのために」認可したというものです。

 ところで、わが子に「悪魔」と名付け、役所に届けたところ受理してもらえなかった事件をご記憶でしょうか。この一件に対して言語学の田中克彦(一橋大名誉教授)さんが寄せた一文(「悪魔くんに思う」出典:岩波の「図書」の巻号は不明ですいません)が印象的でした。
 田中さんは、日本でせっかく「悪魔」くんが誕生しかけたのに父親が取り下げたのは、「日本社会における命名に際しての圧力がいかに大きいか」、「言語意識の特有性」を浮き彫りにしたと喝破しているのです。

 具体的には、モンゴル人の名づけから論拠を見出しています。例えば、「ネルグイ」さん。訳せば、「名無し」だそうです。何とも不思議な感じです。「フンビシ」という例も。これは「人でない」ということ。他にも、「誰でもない」、「うんこまみれ」、「悪い娘(ただし男性の吟遊詩人の名)」など。
 なぜそんな名前なのでしょう。田中さんは、「自然がきびしく、乳児の死亡率の高かったかつてのモンゴルでは、どんな魔物も決して近づいたり、ふれたりする気にはならないような名にしておこうという親の思いが込められていたのである」と解説します。
 モンゴルでも「チュトグル」つまり「悪魔」くんがいるのだそうです。田中さんの主張は以下の通りです。
 今回の件は、命名行為の著しい規範性と同調性である。名前はまずあまり変わっていてはいけない。社会的な期待と規範に合致しなくてはいけないという無言の圧力である。
 社会の期待と規範に合った名とは、いわゆる「いい子ちゃん」名前、すなわち、道徳に合致し、徳目を表示した名である。名というものは、モンゴルの例が示しているように、「いい名」が不幸を呼んだり、「悪い名」が守りになったりするという神秘的なものだ。それを日本では徳目にあわせて自己規制するように求められるから、ますますハンコで押したような非行性的で無性格なものになって行く。
 このことは、あらかじめ「いいことば」と「悪いことば」をきめておき、悪いことばは使わないようにしましょうという、お役所ふう差別語狩りのもう一つの面である。悪魔くんは、「おりこうさん」しか許さない、日本的サベツの網に敏感にとらえられてしまい、ついにその誕生を全うすることができなかったのである。
 
 はてさて、わがナンフェスの「てんとう虫」君の名前にはどんな物語が生まれるのでしょうか。

2013/01/12

3 「漢字の森深く」から

 私は漢字が好きである。お習字(書道ではなく)を長くやっていたからであろうか。「漢字の森深く」と題する連載(朝日新聞夕刊2009年11月25日?12月8日)があった。ニッポン人・脈・記シリーズの一つである。大変興味深い内容であった。簡単に紹介したい。

 画数のやたら多い漢字がある。例えば、「憂鬱」の「鬱」だ。ほとんど使わないものもある。「塩」の旧字体である「鹽」をあえて使う人がいる。理科ノートには「實驗」と書くという。実験ではなしに。「飯盒炊爨」だとおいしく感じるかもしれない。漢検1級に、しかも満点に挑み続ける人たちだ。

 漢字は東洋人だけのものではない。
ハンガリー生まれのピーター・フランクルは大道芸人でもあり数学者だ。12ヶ国語をあやつるも漢字と出会い、驚愕する。1982年初来日し、88年からは日本で暮らす。日本名「富蘭平太」を名乗る。「漢字は日本が誇るべき無形文化財なんです。」
1987年、フランクルは大道芸人の若者と出会う。トニー・ラズロ(アメリカ)だ。そう、彼こそ「ダーリンは外国人」の登場人物。妻よりはるかに漢字に詳しい。妻は小栗左多里。作者である。
そのラズロが尊敬するのはハルペン・ジャック(イスラエル)。14ヶ国語がわかる。「春遍雀來」と書く。妻ミハルは、美晴。長男バラキは、薔薇樹。長女ケレンは、花蓮。家族の名を織りこんだ漢詩まで詠む。

春遍く 雀來たらば
春遍く 美しく晴るる
春遍く 薔薇の樹咲かば
春遍く 蓮の花近し

詩人 三好達治はうたう。「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。」

書家 國重友美が「海」をくずすと「Sea」が見える。「英漢字」の誕生だ。そして、自身裸となり、薄い墨と顔料を塗って大きな紙にペタリ。男性版もと夫がペタリ。夫とは西村和彦、そう俳優だ。

書家 神田仁巳は「かんち人文字」を生んだ。漢字の中に顔がある。難病「多発性硬化症」の患者である。自身の病気と他の患者さんたちの完治を願い、命名した。

点字は1文字が1ます六つの点からなる。仮名やアルファベットが表せる。川上泰一は漢点字を考案した。1970年のことだ。川上は、1949年に農学校と聞いて行ってみた。しかし、盲学校だった。視覚障がい者の教育とは無縁の世界から来て、川上漢点字を完成させた。この漢点字との出会いを、鍼灸師岡田はこう表現する。「すべてが白黒から極彩色に変わったよう。」

「道」には「首」がある。なぜか。古代中国でよその氏族の土地を行く時にその首をはね、呪いの力によって邪霊を祓い清めたことに基づくという。中国文学者 白川 静は、甲骨文字や金文の意味や由来を解き明かし、漢字の成り立ちから古代を蘇らせた。

「障害者ではなく、障碍者と書けるようにしてほしい」豊田徳治の願いである。「害のある人と誤解されかねない」からだ。常用漢字表に「碍」はない。30数年前の韓国駐在時代に取引先から「韓国では障碍者と書く。日本ではなぜ害なのか」と問われ、答えられなかった記憶がある。息子が統合失調症となって初めて向き合った。

あなたの「しんにゅう((しんにょう)とも言う)」は、1点派それとも2点派?敗戦直後までの活字は2点だった。1949年、当用漢字の字体を決めた時、簡略化して1点に。が、常用漢字でないものは2点のまま使われた。そこにパソコンが加わる。パソコンならどちらでもすぐに出てくる。

漢字なんてやめてしまえ、と漢字廃止論は根強い。民族学者 梅棹忠夫は、戦中、中国から電報を打った。漢字を1字ずつ4桁の数字に変換して打電、受信側はその逆を行った。その煩雑さに「こんな文字と心中するのはまっぴらや」と思った。繁雑な漢字の体系が文化や教育の発展、情報の伝達を妨げていると考えた梅棹はローマ字運動に取り組む。

文章心理学者 安本美典は1963年に「漢字の将来」の中で「22世紀末には漢字は滅亡するであろう」と予測した。作家100人の小説100編を分析していたら使用されている漢字の数が時代とともに減っていた、からだ。20世紀初めの作品では39%だったものが、半ばの作品となると27%となっていた。
 このシリーズの最後は次の一文で結ばれる。
「一つの漢字に、たくさんの物語がやどっている。その森は深く、人を魅了してやまない。」

2013/01/04

2 なぜに徒然草読める・読めない

「つれづれ」の音に対し、漢字「徒然」がすぐに書けましたが、不思議さは否めませんね。使いもしない、肝心の本を読めもできないものをどうして書けたのでしょうか。また、「徒然」を「つれづれ」とどうして読めるのでしょうね。まぁ、かつて学校で習ったことがあると言えばそれまででしょうが、学校で習ったことのほとんどは忘れてしまっているのに。一度覚えた「泳ぎ」がずっと忘れないようなものなのでしょうか。

 読めた、書けたがどの程度意味をなすのかに対し、逆に読めない、書けないのはどうなのでしょうか。近年、大学生の「学力低下」が叫ばれていますように「読めない」「書けない」をここに帰結させてお終いにできるとは思えません。「徒然」を読めて書けた私も、先輩たちに比較すれば、はるかに漢字を知りません。また、その先輩たちでさえ先代に比較すれば読み書く漢字は相当減っているものです。

 文芸評論家の斉藤美奈子さんは「踏襲を『ふしゅう』と読んだ首相の日本語力。バカバカしいようで、じつは興味深い問題かもしれない。日本に生れ日本語で生活し、60年以上がすぎても、踏襲を『とうしゅう』と読めない人は読めないのだ。日本語を話すのと読み書きするのとは別の能力だからである。」と2008年の批評と題する新聞コラム<文芸時評>(朝日新聞2008年11月26日)に書かれていました。
麻生さんの漢字読めない事件と漫画好きとが妙に結びつけられたりしないか心配していましたら、案の定、山藤章二さんのブラックアングル(週刊朝日の最終頁にあります。この週刊誌を後ろから読ませる頁との噂あり。)で遊ばれてしまいました。2009年最初の号で百人一首の風情で。
「これはそのぉ ふしゅうと読んじゃ まちがいか 知るも知らぬも 漫画のせいだ」
(これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき)

 神戸女子学院大の内田先生は学生のレポートにあった「精心」の誤字にショックをうけました。そして、その後に「無純」に出会ってもっと大きなショックを受けたそうです。なぜなら、その学生さんは「無純」と書いた「むじゅん」を「矛盾」という正しい意味で使っていたからです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。内田さんの分析は、さえています(内田樹「下流志向」2007年講談社)。
多少の誤字なら誰にでもある。例として「顰蹙」をあげる。しかし、「矛盾」は日常いたるところで目にしているはず、なのに「むじゅん」と読まずに飛ばしてきたのか。「顰蹙」を正確に書けない程度のものとは異なる。すると、「矛盾」を「むじゅん」と読めなくとも書けなくとも平気で20年近く生きてきた学生は、その文字を読み飛ばしているからだ。つまりスキップしたわけだ。

しかし、人間というものは、そうしたわからないものを内在させ、維持し、時間をかけて噛み砕くはずなのに、そうした学生は、わからないものがあったとしても、気にならずに済ませることができるのではないか。さらに、やがてそうしたわからないものは、「存在しない」ことにしているのではないか。
 よく意味がわからないものがあっても特段不安や不快を感じることなく生きていられる。学びを何かと「等価交換」しようとしているのではないか。学ぶに値するか否かは自分が決定権をもっているかのごとく、自分の物差しだけで世の全てを測ろうとする。この判定の有用性は誰が担保するか。それは「未来の自分」だ。
 こうして「学びからの逃走」が始まった。捨て値で未来を売り払う子どもたちの大量発生を生み出している。

 いかがですか。内田さんのされた誤字体験は私にも日常的にあります。専問、講議、等々。その都度訂正してゆきますが、肝心の本人には届いていないなぁの実感があります。目の前で点数化されないことや「習っていないから」というエースを持っているからでしょうか。それが集団化されますと自覚もされず、もはや敵なしとなってしまいます。

 最後に「鬼籍」のはなし。ある若い女性が鬼籍に入ったとの報を受けて、年配者のグループは「おかわいそうに。」と、若い層も「おかわいそうに。」との同じ反応。若い層に聞けば、だってあの娘はあんな怖い姑のいる家に嫁いだんだから。そうか、鬼籍とは、「鬼婆のいる家の籍に入る」と捉えていたんだ。