2013/04/22

10 メクラウナギ改めホソヌタウナギと申します(前篇)

並外れたウルトラランナーでもある、五代目円楽一門会の三遊亭楽松師匠の小噺にこんなのがあった。

 大旦那の按摩を終えて、夕刻、お店(たな)を出ようとする按摩屋さんに番頭さんが、
「按摩屋さん、ご苦労だったね。日が落ちちまったけど、気いつけてな。まぁ、あんたにゃ、日が落ちても関係ねえけんどな。」
「へい、左様で。ですが、番頭さん、提灯をひとつお貸しいただけないでしょうか。」
「提灯貸すのはわけねぇけんど、お前さんにゃあ、灯りはいらねぇんじゃないのかい。」
「ええ、あっしにはいらねぇんでやすが、灯りがねえと暗闇でおいらにぶつかっちまう、不便な目明きてぇのがいるもんですから。」

 めくら。辞書を引くと、盲と瞽の文字がある。意味は3点ある。
1)視力を失っていること。盲目。
2)文字を理解できないこと。
3)物事の筋道や本質をわきまえないこと。

第1項はともかくとして、第2、3項はどうしてこのような意味が宛がわれているのであろうか。とにかく否定的な内容でしかない。

そういえば、「めくら判」、「めくら打ち」、「めくら滅法」等が日常語化していることに気づく。すべて、ほめ言葉ではない。否定的である。

小噺中の「目明き」とは単に視覚障がいのない、晴眼のことでしかない。だが、「目明き(めあき)千人盲(めくら)千人」とは、世の中には道理のわかる者もいるが、わからない者もいる、ということだ。「めくら」とは、道理がわからない側の比喩となっている。

「群盲象を撫ず」もよく耳にする。多くの盲人が象を撫でて、自分の手に触れた部分だけで象について意見を言う意からきていて、凡人は大人物・大事業の一部しか理解できないというたとえ、と辞書にある。

また、辞書を繰ってみよう。

めくらかべ(盲壁):窓のない壁
めくらごよみ(盲暦):文字を理解できない人のために絵や記号で表した暦
めくらさがし(盲探し・盲捜し):やみくもに探すこと。また、手探りで探すこと。
めくらじま(盲縞):縦横とも紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。盲地ともいう。
めくらしょうぎ(盲将棋):双方または一方が盤や駒を使わず、口頭で指し手を運ぶ将棋。
下手な将棋、へぼ将棋。
 めくらながや(盲長屋):通路に面した方に窓のない長屋
めくらの垣覗き:やっても無駄なことの譬え
めくら蛇に怖じず:物事を知らない者はその恐ろしさも分からない。
無知な者は、向う見ずなことを平気でする。
 
 「盲」とは、物理的に閉じられただけでなく、論理的にも、つまり頭脳の思考においても閉じられた世界を意味するようである。しかし、それは事実なのであろうか。すなわち、「盲人」とは、閉じられた空間において息をし、論理的な思考ができず、短絡的な着想にのみ終始する存在となるのであろうか。
 現実の世界には、「盲人」でありながら幾多の言語を習得し、世界をまたに活躍する人物などと評される人もいれば、「目明き」でありながら短絡的な思考にのみ終始する人物など掃いて捨てるほど存在する。
 ゆえに、「盲」とは、「目明き」が勝手に「盲」を想像した世界と言えよう。当事者を排した思考例の典型と言えるのかもしれない。

(つづく)