2013/04/29

10 メクラウナギ改めホソヌタウナギと申します(後篇)

そこで首題に移ろう。人間が命名した動植物には、その形状、動作等からヒトのそれに類した差別的な表現に基づく命名のものが案外と多く、昔からそう言われてきたために逆に意識外に置かれてきてしまったのかもしれない。
具体的に例を見てみると、日本魚類学会は標準和名として問題と思われる32種(約3900種中)について検討し、「メクラウナギ」を「ホソヌタウナギ」に、「オシザメ」を「チヒロザメ」に、「バカジャコ」を「リュウキュウキビナゴ」に、「セムシイタチウオ」を「セダカイタチウオ」に、「イザリウオ」を「カエルアンコウ」に、「ミツクチゲンゲ」を「ウサゲンゲ」に、「アシナシゲンゲ」を「ヤワラゲンゲ」に、「テナシハダカ」を「ヒレナシトンガリハダカ」に、「セッパリホウボウ」を「ツマリホウボウ」に言い換えるという。

昆虫についても同様のことが言える。害虫の「メクラカメムシ」を「カスミカメムシ」にという具合にである。

 名前は大切である。だからこそ命名する側は想像力を豊かにして、前述のように「目明き」が勝手に「盲」を想像するかのごとく、当事者を排した思考に基づかないようにする必要がある。

 政権が移った先の衆院選でも、当選者が行う、かつては勝利の象徴的行為でもあった「ダルマの目入れ」が行われなくなったようである。少なくともテレビ報道では一切なされなかった。
 かつて視覚障害者団体が「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全、という偏見意識を育てることにつながりかねない」との要請を行ったからだという。

 乙武洋匡さんは、言う。だるまに目を入れるという風習が差別や偏見に当たってしまうというのなら、世の中の多くのことがグレーゾーンになる。手足のない僕が、「手を焼く」や「足並みをそろえる」を「差別だ」と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる。障害だけではない。美肌を良しとする風潮を、アトピー患者の方が「偏見を助長する」と主張する。モデル=高身長という概念は「差別だ」と低身長の人が訴える。現時点でそんな話を聞いたことはないが、これだって「だるまに目を入れる」のと大差ないように思う。正直、言いだしたら、キリがない。
だが、視覚障害者団体の要請を「考えすぎ」と頭ごなしに否定するのではない。乙武さんは自身の障害を「ただの特徴」と思ってはいても、そういう障害者ばかりではないことも知り尽くしている。「それしきのこと」と感じることに対して、敏感に反応してしまう、のである。乙武さんは、「いやだ」と言う人に「そんなの気にしすぎだ」と言うのは簡単。でも、彼らがなぜ「いやだ」と感じてしまうのか、そこに気持ちを寄り添わせる視点を忘れずにいたい、と言う。

 「言葉狩り」として、筒井康隆は断筆したことがある。無闇矢鱈に表現を禁じたからであった。差別表現は当然使用してはいけない。差別意識なく、類似表現を用いることも同様だ。
 ここで市野川容孝の差別語に関する論考を紹介しよう。
 差別語によって名指しされた人々を傷つけるような言葉を用いるべきでなく、そう名指しされた当事者が、そう名指しされることを拒否している場合には、絶対にそうである。自分たちをどう名指すか、また、他人に自分たちをどう名指させるかに関する権利、「自己定義権」をマイノリティから奪ってはならない、と。

 生き物をどう命名するか、差別語からの発想で命名することは、市野川の論考と同様、鏡の反射であろう。名前に、命名に、ことばに鈍感であってはならない。敏感ではありたい。

2013/04/22

10 メクラウナギ改めホソヌタウナギと申します(前篇)

並外れたウルトラランナーでもある、五代目円楽一門会の三遊亭楽松師匠の小噺にこんなのがあった。

 大旦那の按摩を終えて、夕刻、お店(たな)を出ようとする按摩屋さんに番頭さんが、
「按摩屋さん、ご苦労だったね。日が落ちちまったけど、気いつけてな。まぁ、あんたにゃ、日が落ちても関係ねえけんどな。」
「へい、左様で。ですが、番頭さん、提灯をひとつお貸しいただけないでしょうか。」
「提灯貸すのはわけねぇけんど、お前さんにゃあ、灯りはいらねぇんじゃないのかい。」
「ええ、あっしにはいらねぇんでやすが、灯りがねえと暗闇でおいらにぶつかっちまう、不便な目明きてぇのがいるもんですから。」

 めくら。辞書を引くと、盲と瞽の文字がある。意味は3点ある。
1)視力を失っていること。盲目。
2)文字を理解できないこと。
3)物事の筋道や本質をわきまえないこと。

第1項はともかくとして、第2、3項はどうしてこのような意味が宛がわれているのであろうか。とにかく否定的な内容でしかない。

そういえば、「めくら判」、「めくら打ち」、「めくら滅法」等が日常語化していることに気づく。すべて、ほめ言葉ではない。否定的である。

小噺中の「目明き」とは単に視覚障がいのない、晴眼のことでしかない。だが、「目明き(めあき)千人盲(めくら)千人」とは、世の中には道理のわかる者もいるが、わからない者もいる、ということだ。「めくら」とは、道理がわからない側の比喩となっている。

「群盲象を撫ず」もよく耳にする。多くの盲人が象を撫でて、自分の手に触れた部分だけで象について意見を言う意からきていて、凡人は大人物・大事業の一部しか理解できないというたとえ、と辞書にある。

また、辞書を繰ってみよう。

めくらかべ(盲壁):窓のない壁
めくらごよみ(盲暦):文字を理解できない人のために絵や記号で表した暦
めくらさがし(盲探し・盲捜し):やみくもに探すこと。また、手探りで探すこと。
めくらじま(盲縞):縦横とも紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。盲地ともいう。
めくらしょうぎ(盲将棋):双方または一方が盤や駒を使わず、口頭で指し手を運ぶ将棋。
下手な将棋、へぼ将棋。
 めくらながや(盲長屋):通路に面した方に窓のない長屋
めくらの垣覗き:やっても無駄なことの譬え
めくら蛇に怖じず:物事を知らない者はその恐ろしさも分からない。
無知な者は、向う見ずなことを平気でする。
 
 「盲」とは、物理的に閉じられただけでなく、論理的にも、つまり頭脳の思考においても閉じられた世界を意味するようである。しかし、それは事実なのであろうか。すなわち、「盲人」とは、閉じられた空間において息をし、論理的な思考ができず、短絡的な着想にのみ終始する存在となるのであろうか。
 現実の世界には、「盲人」でありながら幾多の言語を習得し、世界をまたに活躍する人物などと評される人もいれば、「目明き」でありながら短絡的な思考にのみ終始する人物など掃いて捨てるほど存在する。
 ゆえに、「盲」とは、「目明き」が勝手に「盲」を想像した世界と言えよう。当事者を排した思考例の典型と言えるのかもしれない。

(つづく)

2013/03/22

9 一人勝ちの思想 (後篇)

 時の人、江上 剛、日本振興銀行取締役兼代表執行役社長(取締役会議長を併せて兼務、本名は小畠晴喜)が朝日新聞に連載している「街かど経済散歩」(2007年2月14日付)に以下のようなことが紹介されている。「紀文」の社史からだ。

 1968年の冬のことである。紀文の正月用の蒲鉾はじめ各種練り製品の製造を終えた段階でその中に含まれる人工甘味料が翌年からその使用が禁止されることとなった。その人工甘味料とはチクロのことである。発がん性の危険が指摘されたからだ。したがって、この冬に製作したものは法律上販売可能ということになる。
 今やチクロにはそうした危険はない。だが、発がん性が疑われた時、その使用が禁止される時期以前の製品だからと言って、一般大衆は購入するだろうか。危険性とは、法律の問題以前である。

 紀文はどうしたか。先代社長はチクロを含むすべての製品の廃棄を命じた。だが時期が悪い。時間もないところでの廃棄は正月商戦の敗北を意味し、紀文の社運をも落としかねない。社員の「会社のため」そして「自分の生活のため」の論理は同調を得やすい。
 先代社長は頑として応じなかった。その理由は、たとえ法律上は許されても、消費者の期待を裏切ることになるからだ、という。ここにも自分の会社さえよければという「一人勝ちの思想」を超えた思想がある。
 もし1969年の正月にチクロ入り製品を出していたら、今の紀文はないであろう。

 思い出してみよう。雪印乳業が、不二家が、そしてミートホープが、食品偽装・不正を行っていたことを。「白い恋人たち」をしばらくは北海道土産にできなくなった。船場吉兆は廃業に追い込まれた。
 もっとも明治のころの書物「食道楽」(村井弦斎著、1903年刊)にも食品偽装が登場してくる。日本酒に防腐剤としてサルチル酸を入れるとか、純粋バターと称して植物油や豚の脂を混ぜる、などである。いつの時代も人間のやることは変わりない、と嘆く前に、「一人勝ちの思想」を超えた思想に思いをすべき時が来ているのではないか。

 人はどう生きるのか。「一人勝ちの思想」によるのか、それとも違う思想によるのか。
 営利組織である「会社」はどのように社会において活動をするのか。
 自分(自社)だけの都合で、より大きな地域とか、ひいては地球規模でのことを考えずに活動することが「一人勝ちの思想」である。それがもたらす弊害が大きくなってきた現在、「一人勝ちの思想」の克服が大きな課題と言えよう。

 「一人勝ちの思想」を超える事件があった。「美談」という枠組みで捉えてはいけない。
 アメリカのプロ野球(「大リーグ」とは1軍とそれ以下との相対の中の意味のはずが、世界の野球における位置づけに取って代わっている。「ワールドシリーズ」なる言葉に代表されるように。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本が2連覇を達成している。)で本年6月2日、タイガースの投手ガララーガが26人までただの一人も走者を出さなかったのである。そう、完全試合まであと一人だ。そして、最後の打者も1塁ゴロで打ち取った、はずであった。1塁手からベースカバーに入ったガララーガへボールが投げられた。捕ったガララーガも、打者さえもがアウトを確信した時、1塁塁審の判定はセーフだった。ここに完全試合が泡のごとく消え去った。
 監督が抗議をしても判定は覆ることはなかった。それはそれで正義だとは思う。
 試合後、リプレーを見た1塁塁審は誤審を認めた。そして、完全試合を台無しにしたことが分かった。誤審を謝罪もした。
 投手ガララーガはどうしたか。翌日の試合前のメンバー交換時にかの審判員に歩み寄り、握手を交わしたのだった。ガララーガは言った。「完全な人間はいないから。」と。
 審判員の涙は止まらなかった。
 記録好きのアメリカプロ野球において完全試合がどれほど高い評価を得るか。ワールドシリーズにおいてただの1回しか完全試合は達成されていないのだが、それを成し遂げた投手は、この記録以外投手としての成績は凡庸にもかかわらずアメリカスポーツ史上の記憶に残る偉大なそれとして上位にランクされている。
 アメリカのメディアは判定を覆し、完全試合達成と認めるべきだ、とか、ホワイトハウスの報道官までが完全試合の認定をとコメントする始末である。
 それほどのものでさえ、ガララーガは審判員を庇ったのである。しかも翌日に。
 「一人勝ちの思想」を超えた思想がここにもあると思う。自分の記録だけに固執したなら、あるいは、27人目の走者がイチローのような俊足ランナーであって1塁塁審が誤診でセーフにしたなら、つまり疑惑付きの完全試合であったなら、ガララーガには生涯消えない汚点となろう。

2013/03/15

9 一人勝ちの思想 (前篇)

  現代は二分法が人気である。状況の要因分析の結果、2大要因に集約し、さぁどっちだ!と迫るやり方である。大学センター試験を通じて、正解を選ぶのにはたけた人が多いからであろうか。入学試験には正解があるだろうが、状況には正解がない、のである。なのに、どちらかを選ばせるのは理不尽ではなかろうか。

 現代の最たる二分法のそれは、「勝ち組」と「負け組」ではないか。時間を横軸に生産性を縦軸に効率という名の王様がすべてのものを二分してゆく。短時間にできるだけ多くのものを記憶し、それを試験時間内に正しく再生する能力こそが人間の価値を決めるのが現代だ。それが正しくはないと知りながら、社会の全ての仕組みはこれによりかかっている。それは、楽だから、だろう。何よりも組織外から追及された際の免罪符となるからだ。

 グローバリゼーション(アメリカナイゼーションと同義)が「勝ち組」と「負け組」の二分を加速する。ローカライゼーションを標榜しても、所詮「負け犬の遠吠え」程度の役割は果たせても、それ自体での自立にはつながらない。その理由は、思想がないからだろう。アンチ・グローバリゼーションしか拠り所がない。

 近年、グローカライゼーションという言葉がちらほらしてきた。グローバリゼーションとローカライゼーションの合体語である。
 その一例が紹介されていた。某大手電機産業の戦略でもあるが、電気製品を自社の基準で製作して売るパターンから、それぞれの地域で必要とされる機能や不要なものを排除して現地で受け入れられやすいように製品を改変してゆくやり方である。世界中に同じものを供給する大量生産大量消費の時代からの変化である。

 現代を支配する思想は、「一人勝ちの思想」である。「共生」がその対極にある。
 ソ連の崩壊に代表するまでもなく、共産主義や社会主義に基づく国家は長続きしない例が多いことから、こうしたイデオロギー自体に欠陥があると思われているようである。本当にそうだろうか。イデオロギーと現実の政治は必ずしもイコールではないものだ。
 なら、資本主義はいいのだろうか。アメリカと言う歴史上初めての単独超大国を生み、経済至上主義の中で生まれたものが「一人勝ちの思想」だと考えるのは穿ちすぎであろうか。貧しいことはだれも望まない。自由は貴重である。だが、その中から貧富の格差が生まれているのだとしたら考えねばならない。が、問題はそうだとしても現実はもはや修正不能状態のようにも感じられてならないのではないか。

 オリンピックを見てみよう。4年に1度のこの世界大会は、政治や経済に及ぼす影響から言っても過去と比較にならないほど大きなものとなっている。参加国・地域の数や参加人数の増大は言うに及ばず、観戦者の数から来る経済効果に加え、情報としてのメディアの役割、ニュース性、開催地の印象等、多方面から世界中の注目を集めることができる。
 だから、スポーツにおける巨大なマーケットを形成し得る訳である。開催地の権利を得るために各国各都市の招致委員会は巨大な費用をかけて長期間準備をし、招致合戦を繰り広げるのだ。開催地は各国のIOC委員の投票によって決まる。
 同一都市が何回も立候補し、何回も開催地となりうる。つまり、もはや巨大化してしまったオリンピックは、経済的に豊かな地域でしか開催することができないようになってしまったのである。
 だから、開催地の権利を獲得した都市は、多くの経済効果を見返りとして得ることによって、また、その他多くの教育的な効果やインフラの整備などの効果を得ることによって招致のための諸活動、諸費用が免罪される。
 招致に敗れた都市のそれには何もない。
 地球上にはたくさんの国々、地域がある。オリンピックが4年に1度では世界の国々、地域には回りきらない。大陸毎に分けたとしても未だ開催していない大陸すらある。

2013/03/08

8 親に殺される子へのレクイエム (後篇)

家族の愛とは何かを作家桜庭一樹さんは小説で表現しています。「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」がそうです。

主人公は中学2年生の山田なぎさ。母とひきこもりの兄の三人で暮らしている。兄曰く「なぎさは最近、弾丸こめるのに必死だな。実弾主義ってやつかい、我が妹よ。」一方、なぎさは兄を評して「兄は現代の貴族なのだと思う。働かず、生活のことを追わず、ただただ興味のあるものだけを読んで、考えて、話して、暮らす。」と。

なぎさの前に転校生「海野藻屑」(うみのもくず)が現れる。彼女は父親と暮らす。理解不能な言動を操りながらも、藻屑はなぎさと友達となろうとする。最初のあいさつで「ぼくはですね、人魚なんです。」とやらかす。「ええとですね人魚に性別はないです。みんな人間でいうところの雌っぽい感じで、だけど人間みたいな生殖器はないので、卵をプチプチたくさん生みます。だからぼくにおとうさんはいません。この日本海にいる人魚全部が仲間です。それでぼくがここにきたのは、人間界が知りたいからです。人間は愚かでお調子者で寿命も短くてじつにばかみたいな生物だと波の噂に聞いたのできちゃいました。みなさん、どうか、どんなにか人間が愚かか、生きる価値がないか、みんな死んじゃえばいいか、教えて下さい。ではよろしくお願いします。ぺこり。」

なぎさの父は漁師だった。山田英次という。十年前の大嵐で亡くなった。藻屑はなぎさの父親の名を聞いて、「ああ、その人知ってるよ」「その人、海の底で会ったよ。幸せそうだった。金銀財宝に、美女の人魚。地上のことなんて忘れて楽しくやってたよ。海で死んだ漁師さんはみんなそう。幸せだよ。よかったね。」

兄友彦は、神となった兄、友彦は、「当たったらヤバイクイズを知っているかい?いいかい、なぎさ。当てるなよ。」「これに答えられた人間は史上にわずか五人しかいないんだ」となぎさを脅して、「ある男が死んだ。つまらない事故でね。男には妻と子供がいた。葬式に男の同僚が参列した。同僚と妻はこんなときになんだけれどいい雰囲気になった。まぁ、惹ひかれあうってやつだ。ところがその夜、なんと男の忘れ形見である子供が殺された。犯人は妻だった。自分の子供をとつぜん殺したんだ。さて、なぜでしょう?」とやる。
全く答えられないなぎさに向かって、兄は「きょとんとしているな、我が妹よ。よかった、なぎさ。君は正常な精神の持ち主だ。」と。そんな兄は、なぎさから聞いた藻屑に関する言動から、「その子、かわいいね。彼女はさしずめ、あれだね。“砂糖菓子の弾丸”だね。」「なぎさが撃ちたいのは実弾だろう?世の中にコミットする、直接的な力、実体のある力だ。だけどその子がのべつまくなし撃っているのは、空想的弾丸だ。」「その子は砂糖菓子を撃ちまくってるね。体内で溶けて消えてしまう、なぎさから見たらじつにつまらない弾丸だ。なぎさ・・・・」と言う。

藻屑の家の犬が鉈でバラバラにされる事件がおきたり、なぎさが学校で飼育しているウサギが惨殺されたり、藻屑の言う嵐がくるというのでなぎさと藻屑はどこかへ逃げる算段をする。それを敏感に察知した兄、そして、藻屑となぎさは藻屑の家に。脱出の荷物を取りに家に入って二時間たっても藻屑は出てこなかった。
藻屑の体にはあちこちに痣がある。父親からの虐待を受けていることを想像させる痣だ。だが、藻屑はそれを否定する。「ぼく、おとうさんのこと、すごく好きなんだ。好きって絶望だよね。」
不安が不審に変わったとき、なぎさは藻屑の家の中に入った。さっき父親が出て行ったからだ。しかし、家の中にはだれもいなかった。風呂場に行くと、なんか生臭いような臭いがした鉈が立てかけてあった。脂でてかてかしている。藻屑はここにいるとなぎさは思った。が、呼んでも誰も答えない。なぎさの背後に父親が立っていた。
「人の家で何をしているんだ!」となぎさを問い詰める父親に向かって、なぎさは「当たったらヤバイクイズ」をとっさに出してみた。父親はうんとうなずいて答えた。「逢いたくて、じゃないかな?」
正解だった。このクイズに史上五人しか正解を答えられていない。その五人とは、有名な猟奇事件の犯人たちであった。
「藻屑をどうしたの?」と父親に向かってなぎさは叫んだ。父親は答えられなかった。「・・・・海の、泡に、なった。」とだけ答えた。

十月三日の夜も更けはじめた。警察に言ってもだれも信用してくれない。母親も担任教師も信用してくれない。なぎさは「藻屑は父親に殺された」と信じている。兄だけが、兄、友彦だけが信じた。「なぎさがそう感じるなら、信じるよ。」そして、3年間一歩も外に出ていなかった兄が「なぎさ、行こう。蜷山」
二人で蜷山を登る。山頂に近い、かつてなぎさと藻屑が訪れた開けた場所、藻屑の愛犬がバラバラにされていた場所で、心なしか生臭いような、獣の気配すらする臭いが充満してきた。「なぎさはここにいて。にいちゃんが見てくる。」そして、長い間、兄、友彦は戻ってこなかった。
やがて兄、友彦は戻ってきた。「降りよう。」「警察に通報しなきゃ。」「女の子がバラバラになって死んでいる。」なぎさは兄、友彦の制止を振り切り走りだした。そして、「分割されてていねいに積み上げられている、もう動かない友達を見た。」
なぎさは兄、友彦に手をひかれ早朝の警察署に飛び込んだ。泣き、震えて口が利けなくなったなぎさに代わり、兄、友彦が藻屑の死体発見の経緯を説明した。
藻屑の父親が逮捕された。
兄、友彦はひきこもりを止め、なぎさと一緒に料理を作るようになっていた。そして、髪も短く切り、なぎさより先に自衛隊に入隊してしまった。

「今日もニュースでは繰り返し、子供が殺されている。」
「藻屑は親に殺されたんだ。愛して、慕って、愛情が返ってくるのを期待していた、ほんとうの親に。」

2013/03/01

8 親に殺される子のレクイエム (前篇)

親より先に子が逝くことは「親不孝」と言われます。では、親に殺される子は何と呼べばいいのでしょうか。ただし、この場合「虐待(DV)」によるものは除きます。

市民裁判員制度が始まった昨今、単なる傍観では済まされなくなる時が来るかもしれません。さて、あなたならどうお考えになりますか。

その新聞記事の見出しにはこう書いてありました。
『難病息子の命絶った妻 夫「気の毒で刺した」』(朝日新聞2009年10月20日)
「難病息子の命絶った妻に頼まれ殺害」(朝日新聞2010年3月6日)
事件のあらましを時間を追ってみてゆきましょう。

1)2004年8月、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の息子(当時40歳)の人工呼吸器の電源を切った母。いくら息子の頼みとはいえ「殺人」だ。横浜地裁は死を望む息子の懇願があったことを認め、嘱託殺人罪を認定した。懲役3年、執行猶予5年の判決である。

2)地裁公判での後追い自殺の可能性を問われた際に、母は「絶対に後追いはしません。あの子にこれ以上の悲しみを負わせたくありませんから。」と答えている。

3)が、現実は違った。家に戻った母は、息子の仏壇に泣きながら語りかける毎日であった。そして自殺願望も。約5年間、夫は支え、励まし続けるもいよいよ限界に達していた。
4)息子のもとへ夫婦で心中を決意するも果たせず、2009年10月12日未明、「もう限界。一両日中に絶対にやるからね。」と布団に包丁を持ち込んでいた。「お父さんに罪を着せられない。」と夫の前で自ら首を刺した。が、「できないよ。」死にきれずについに懇願する。「いいのか。」と問う夫に「お願いします。ここだよ、お父さん。」と首を指さした。

5)夫は包丁で妻の首を刺した。血が噴き出す音が聞こえたが、妻は悲鳴もあげなかった。妻は失血死した。「今まで長い間つらかったね。これで楽になったな。」と夫は声をかけた。

6)公判で夫は嘱託殺人罪と認定された。裁判長は「長年連れ添った妻を自らの手で死なせた苦悩、葛藤は想像の及ぶところではない。」「裁判所はあなたに深い同情を感じています。自身で命の大切さを確かめ、生き抜いてほしい。」と励ましている。懲役3年執行猶予5年が言い渡された。

7)被告人尋問では、夫は心境をこう語っている。「家内を殺したことに後悔はないです。しかし、どんな理由があろうと人を殺めるべきではなく、反省しています。」

8)「前回の事件と同じように、他人に頼らず自分たちで解決しようとしてしまったのか。」とALS患者の父を持ち、5年前の事件で公判を傍聴した日本ALS協会の理事は夫婦の心情をそう推し量る。

ALSの息子を殺した母から、その母を殺した夫に焦点が移って行ってしまった感がありますが、元に戻って考えてみましょう。死を望む息子がいたとして、その懇願に負けて人工呼吸器を外してしまった母の行為はどのように考えたらいいのでしょうか。

1970年5月に起きた母親による脳性マヒの子殺しとその後の顛末が考えるヒントの一つとなるかもしれません。この事件は、二人の重症の脳性マヒ児を抱えた母親が当時二歳となる下の子を絞殺したものでした。そしてこれが特に「問題」化されたのは、一人でさえ絶望的になりやすい脳性マヒ児を二人も抱えた母親のために「減刑嘆願運動」が起きたからでした。さらに、もっと大きく問題化した理由は、この減刑嘆願運動に対して殺された側にいる脳性マヒ者たち、特に「青い芝の会」を中心とする脳性マヒ者の側から、根本的疑問が提出されたからなのです。

本多勝一さんの論考を引用します。
脳性マヒに限らず、どんな身体障害にしろ、障害だけが理由で心の底から死にたい、自殺したいと考えることが、ありうるでしょうか。なるほど自殺した障害者は、死にたいから自殺したのでしょう。しかし、なぜ死にたいと考えるようになったかを検討すれば、おそらくほとんどは、障害自体によるのではなく、障害を原因とするさまざまな差別や貧困行政によって「自殺させられた」のであり、要するに殺されたに等しいことがよくわかります。みんな、生きたいのだ。どんなに不自由でも、健康な人が生きたいと考えるであろうと全く同様に、生きたい。いや、むしろ不自由だからこそ、そのことを積極的に意識しています。健康な人間は、重病にかかって初めて生きたいと思う例が多いようですが、身障者は生涯そんな心境で生きているのだとも言えましょう。
母親による身障児殺しにせよ心中にせよ、この点の理解に決定的問題がひそんでいます。母親の苦しみが想像を絶するほど大きいものであればあるほど、ジレンマが巨大であればあるほど生命の尊厳―結局は人間の尊厳とは何かを問いつめてゆきます。

横塚晃一さんによる「CPとして生きる」をやはり本多さんのところから引用します。横塚さんは「青い芝」の当事者です。
なぜ彼女(子殺しの母)が殺意を持ったのだろうか。この殺意こそがこの問題を論ずる場合の全ての起点とならなければならない。彼女も述べているとおり「この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ」と思ったという。なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めようとする、この人間に対する価値観が問題なのである。この働かざるもの人に非ずという価値観によって、障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている。
障害者の親兄弟は障害者と共にこの価値観を以って迫ってくる社会の圧力に立ち向かわなければならない。にもかかわらずこの母親は抑圧者に加担し、刃を幼い我が子に向けたのである。我々とこの問題を話し合った福祉関係者の中にも又新聞社に寄せられた投書にも「可哀そうなお母さんを罰するべきではない。君達のやっていることはお母さんを罪に突き落とすことだ。母親に同情しなくてもよいのか」等の意見があったが、これらは全くこの「殺意の起点」を忘れた感情論であり、我々障害者に対する偏見と差別意識の現れといわなければなるまい。これが差別意識だということはピンとこないかもしれないが、それはこの差別意識が現代社会において余りにも常識化しているからである。(後略)

「青い芝」の会がこの時に発した「母親の減刑嘆願運動」への批判を市野川容孝さんは次のように要約しています。
人びとは親に同情するけれども、私たち障害者はどうなっているのか。私たちは、親になら殺されても仕方のない存在なのか。そもそも社会は、私たち障害者に人間の尊厳と生きる権利を求めているのか。いや、それらが否定されているからこそ、このような減刑嘆願が肯定されるのではないか。
さらに市野川さんは「青い芝」の会の批判は世間に少なくとも二つのことを問うていると分析します。一つ目は、障害者の生きる権利そのものを最初から考えなおし、肯定し直されなければならないということです。二つ目は、その障害者の生きる権利を保障する上で、家族という「愛」の空間は必ずしも頼りにならず、むしろ危ういものであるということです。そして、1970年事件当時の「青い芝」の綱領の一部を引用します。「われらは愛と正義を否定する。われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それらを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する」と。

2013/02/22

7 ナンフェスの夢 (後篇)

  ナンフェスはバリアフリーな社会を望みます。ノーマライゼーションを目指します。しかし、そうしたことを声高に叫ぶ団体ではなく、「しなやかに、あかるく、わかりあう、せかいをつくる」団体です。また、ナンフェスはそれ自体が増殖可能な、自由な存在として、活動を通じて社会に発信し続けたい、とも考えています。
 
 そんなことを考えているときに、ふとある日の投稿記事が目に飛び込んできてくれました。「日本映画 聴覚障害者のために字幕を」(2007年4月6日朝日新聞「私の視点」欄)です。かつて切り抜いていたものを失念していたようです。野林さんという方の投稿です。

 最近の日本映画は、元気があっていい。映画ファンの私にとっては、この上ない喜びである。しかし、喜んでばかりではいられない。外国映画には当たり前の字幕が、日本映画にはないからだ。私たち聴覚障害者にとっては上映中の映画の内容がわからず楽しめない。他の人々が笑ったり、涙ぐんだりしていても、ただ何となくしか理解できないもどかしさがある。
 映画館によっては、字幕付きの日本映画を上映してくれる時もある。また、聴覚障害者情報センターのホームページでは、字幕上映の映画館や日程を紹介してくれている。
 ただ、ひとつの地域で上映されるのは、たったの2日間くらいがほとんどだ。それも一部の日本映画だけである。この上映時期を見逃せば、しばらくは見ることができない。
 後はひたすらビデオライブラリーに入荷するのを待つか、DVDの発売を待つことになる。DVDも日本映画の場合、すべてに字幕が付くとは限らない。(中略)
 年末の障害者週間に合わせて映画を上映するところもあるが、日本映画には残念ながら字幕がないものがほとんどだ。字幕を付けてほしいと要望したこともあるが、願いはかなっていない。(中略)
 長い人生の途中で聞こえにくくなった人は、なによりも文字による情報保障が一番うれしい。
 映画の字幕だけでなく、コミュニケーション支援の要約筆記者による援助など、文字による情報保障が十分になされるのが当たり前の世の中になってほしいと願っている。

 野林さんに指摘されるまで私は全く気がつきませんでした。
 弁解ではありませんが、私はかつてランニング学会の理事長としてすべての口頭による学会発表に手話通訳を付けたことがありました。2年間の任期でしたが、経費がかかること、手話通訳を必要とする者がいるのか、の2点で私の任期が終わりますとなくなってしまいました。同時にベビーシッターも用意しておりましたが、こちらも同じ運命となりました。

 そして、いま聴覚障害の学生が私の授業を履修しています。二人のノートテイカーが大変苦労して私の講義をPCに書き取っていますが、専門用語やらカタカナ語やら、私の早口などで件の学生さんに伝わりにくいもどかしさを味わっています。私の方も専門用語をあらかじめタイプしたり、板書しながら、繰り返し同じことを説明したり、と工夫してはいますが、隔靴掻痒の感が免れません。

 障害学の本を読みましたときに、二つの障害の概念を整理していました。一つは、インペアメント(身体の物理的状態としての障害、この例では聞こえないこと)ですが、もうひとつのディスアビリティの概念を知ったときに、正直頭を殴られたように思いました。それは、ディスアビリティを「インペアメントを理由に当事者から様々な可能性を剥奪する社会のしくみ」と定義していたからでした。
 障がい者スポーツを考えるときに障害学からの視点で考えねばならないと思いました。ここからナンフェスの夢が生まれるかもしれない、と感じています。

2013/02/15

7 ナンフェスの夢 (前篇)

 時季外れですが「サンタはいる」と答えた新聞のお話を。ニューヨーク 立野純二さんの署名記事からです(朝日新聞2009年12月19日)。

 19世紀末、ニューヨークに住む8歳の少女が地元の新聞社に1通の手紙を送った。
 「友だちがサンタクロースなんていないと言います。本当のことを教えてください。サンタはいるんでしょうか。」
 それを受け取った「ニューヨーク・サン」紙の編集局は本物の社説で答えた。
 「サンタはいるよ。愛や思いやりの心があるようにちゃんといる」「サンタがいなかったら、子どもらしい心も、詩を楽しむ心も、人を好きになる心もなくなってしまう」「真実は子どもにも大人の目にも見えないものなんだよ」

 少女の名前は、バージニア・オハンロン。のちに教師に成長し、学校の校長先生になって、1971年に亡くなるまで、恵まれない子どもたちの救済に尽くした。
 彼女の名を冠した奨学金制度が今月、ニューヨークのアッパーウエスト地区にある小さな私立学校にできた。貧しい家庭の優秀な子に授業料を支援するという。その校舎は、バージニアがかつて住み手紙をしたためた、レンガ造りの4階建ての家にあった。

 校長のジャネット・ロッターさんは「何かの運命と思った」と私に静かに語った。71年設立の同校は、不動産高騰が続く市内で入居先を転々とし、現在地近く22年前に移った。その後、バージニアの物語を初めて本で読んだ。彼女の手紙に記された住所から、その場所が学校の向かいの廃屋だと気づいた。
 学校の支援者らと息長く資金を集め、外壁だけを保存して再建し、07年に入居した。近代的な校内に往時の面影はない。だが、ここで学ぶ110人の児童の心には「目には見えずとも大切なもの」が生き続けていると校長は言う。

 少女の心の扉を開き、百年の時を超えて人々の想像力のともしびを燃やし続ける一編の記事を生み出す力が今、私たちの新聞にあるだろうか。
 「時代が違いますからねえ」。校長は熟考してから、言った。「メールや携帯電話は広まったけれど、人間らしい対話は乏しいような気がします」
 サンタはいる。そう書ける新聞でありたい、と思う。
 以上で立野純二さんの記事は終わりです。そこでナンフェスの夢は?と問いかけることにしましょう。ナンフェスに「サンタはいる」と答えた「ニューヨーク・サン」紙のようなことが可能なのでしょうか。

2013/02/08

6 松浦寿輝さん曰く、かつて授業は「体験」であった。

 松浦さんは表象文化論がご専門。この一文は東大出版会の月刊「UP」誌2007年5月号に載っていたものです。かいつまんでご紹介しましょう。

 昨今の講演などでは、パワーポイントを用いて、話の内容を補ったり、例証したりする画像や図表が次から次へ呼び出される。主題を簡潔に整理したレジュメだの、複数の事柄の関係を示す図式だのが要所要所で随時提示される。話し手が何についてしゃべっているかが具体的に理解できるし、話全体の流れや組立てもすっきり頭に入る。まことに良いことづくめと言うほかはない。
 学生によるアンケートが毎学期繰り返され、教師は定刻に来るか、熱意はあるか、授業は上手いか、話がわかり易いか、よく準備されているか、板書は見易いか、その授業を受けて役に立ったか、等々、聞き手である学生さんたちから「評価」が下される時代である。大学教育はサーヴィス業であり、クライアントである学生さんたちに人気のない授業は悪い授業であり、聴衆の興味を持続させるように組み立てられた明快な「プレゼン」が、大学教師にも求められている。
 わたしも聞き手の興味を繋ぎ留めてくれそうな画像を次から次へと提示し、「面白くてためになる」授業を行って、お客さんたちに喜んでもらいたい。
 だが、それも、1972年、わたしが大学に入学した時の、井上忠先生のギリシャ哲学の授業がふと蘇ってくると途端に雲散霧消してしまう。

 早朝1限の授業だった。井上先生はいつも30分ほど遅れて教室に到着し、見るからに重そうな鞄を教卓にドンと置き、いきなり語り始めたのだった。教壇を右に左に移動しながら、何のノートもメモも見ずに、やや早口にただひたすら語る続け、1時間ほどして、唖然としているわたしたちを尻目にさっと出て行ってしまう。

 なぜわたしたちは唖然としていたか。朗々と響く井上先生のお話をせいぜい1割か2割ほどしか理解できなかったからである。日本語で話されているのにそれが理解できない。
 なにかとても大事な事柄が、他の誰にもできないような仕方で語られていることだけはわかる。この人の発する言葉一つ一つの背後に、恐ろしいほどの知的労力と時間の蓄積が潜んでおり、膨大な文化的記憶の層が畳み込まれていることもわかる。だが、哀しい哉、無知と無学のゆえに、わたしにはその内容が具体的に理解することができない。彼が語っていることを本当に理解するには、結局、沢山の、沢山の、本を読まねばならず、しかもその道には終わりというものがない。わたしはそのことだけは戦慄的に理解した。

 井上先生の講義から、何らかの知識なり情報なりを受け取ったわけではない。彼の講義は単に、或る決定的な「体験」だった。ほとんど理解できない言葉のシャワーを浴び続けるという、恐ろしくも爽やかな、それは「体験」だったのである。

 今も大事にしているその時の教科書を開くと、井上先生の講義の難しさは特殊な仕方で定義された概念や術語が多用されているからではなかった。そんなものの意味は哲学語辞典で引けばすぐにわかるし、その学問分野に固有のジャーゴンを目くらましの煙幕を張った講義の二流ぶりを見透かすには、大学新入生程度の知力で十分事足りた。井上先生はその後、いくつもの美しい本を上梓されたが、それらをすべて貫いているのは、哲学的ジャーゴンを廃し、「何か?」という始源の問のみを執拗に、仮借なく把持しつづけるその思考の剛直で潔癖な姿勢である。

 わたしは思い出す。タレスから始まる古代ギリシャの哲学史を縷々辿りつつあった講義の途中に、突然「論理哲学論考」と「哲学探究」の話を聞くことが、わたしたちをどれほど興奮させたことか。

 わたしは思い出す。或るとき井上先生は不意にミシェル・バタイユの「クリスマス・ツリー」の話をされた。このセンチメンタルな物語とギリシャ哲学との間に、どのような架橋があったのかまったく覚えていない。が、「クリスマス・ツリー」の話がいきなり出たことの驚きは、今でもなまなましく甦ってくる。

 わたしはまた思い出す。或るとき井上先生はこれもまた実に唐突に、マルティン・ブーバーの「我と汝」に言及された。あの時あの場で井上先生の口からその書名が出なかったら、きっとわたしはその本と一生出会うことがなかったに違いない。ブーバーの深い思索にいたくうたれた体験については、昨年刊行した拙著「方法叙説」の中でも少々触れた。ふとした余談のように井上先生が与えた小さなヒントが、まったく専門を異にする研究者となり書き手となった学生の、30数年後の著書にまで遠い波動を伝えることになったのである。

 井上忠のギリシャ哲学論がどういうものかなら、35年経った今ならある程度は理解できるだろう。しかし、私にとってそんなことよりはるかに重要なのは、あの何が何やらわからなかった「哲学史」の講義に出席することで、18歳のわたしがほとんど身体的に震撼された、その「体験」の方なのだ。井上忠の授業に出たことが役に立ったか否かと問われるなら、何の役にも立たなかったと胸を張って断言しよう。何の役にも立たなかったその授業は、しかしわたしの人生に手渡された、本当にすばらしい、貴重このうえもない贈物であった。

 そういう「体験」をさせてくださっている先生が教室に定刻に来ているかどうかを問題にしようとする小役人根性は、あのころは大学の側にも学生の側にもなかった。もし仮に、当時のわたしたちが、「授業評価アンケート」をやらされている今日の学生のように、井上忠の授業を「評価」するようにと求められたらどうしたろう。余人は知らぬが、少なくともわたしにはそんな畏れ多いことができたはずはない。畏怖と尊敬の対象であるものに、「評価」など下せるはずがないからである。
 実際、何かを教えてもらうべき聴衆の方で「評価」できてしまう程度の授業であるなら、そんなものなど最初から出席するに値しない授業であることは自明ではないか。

 誰もが薄々感づいていることだと思うが、畏怖も尊敬も、現在の大学からは消えてしまった。教養とは何か、教養教育とはどうあるべきか。この畏怖、この尊敬、それが教養なのである。自分にとうてい理解できないことが世の中に存在するということ、労力を傾け時間を費やせばそれにある程度接近できるということ、しかし「何か?」と問い続けるその道には果てしがなく、だから人間精神の栄光としての学問を前にして人は謙虚にこうべを垂れなければならないことーそれらを知ることこそ、教養にほかならない。

 あれやこれやの主題をめぐって一般知識や基礎的情報を得たいのなら、新書のたぐいを斜め読みするなり、グーグルにキーワードを入れて大雑把な検索を行うなりすればよい。むろんそれは、畏怖とも尊敬とも無縁の世界の出来事である。
 大学もまたそんな世界になりつつある。授業は今や「プレゼン」と化しつつある。教室は、小ぎれいにパッケージされた口当たりのよい知識を要領よく伝達する、能率的な教習会場の如きものになりつつある。

 以上で松浦さんの一文の抜き書きを終えます。この一文を読み終えた時に思い出されたのが、私が大学2年生のときのドイツ語(応用)です。その時、ヘルダーリンの詩が教材でした。「冬よ さようなら!」の2語に、たった2語に2週もかけて解説された授業を今でも思い出すのです。あの教室で、黒板に書かれたこの2語を、久保先生の顔と声を。40年近くなるのに。だからと言って、ドイツを、ドイツ語を究めるなんてことはありませんでしたが。単位はその時はとれず、3年次までお預けでした。(実は、4年生の時に単位取得だったんです。)

2013/02/01

5 奈良大仏の公慶(こうけい)さんとシュリーマン自伝(後篇) 

 オリンピアはギリシャ、ペロポネソス半島北西端にあり、古代オリンピック開催地として知られます。1766年、リチャード・チャンドラーはオリンピアの遺跡を発見しますが大量の土砂に埋もれたオリンピアの全貌を明らかにすることはできませんでした。1875年から本格的なオリンピア発掘が始まりますが、それを指揮することになるエルンスト・クルティウスにとってシュリーマンこそが目の敵となったのです。ドイツアカデミズムの王道を行くクルティウスにとって何ら学閥的背景を持たず、独学で発掘をしてしかも大成功をおさめ、その資金も自らが稼いだ財をもって充てるシュリーマンは受け入れがたい人間でした。

 そのシュリーマンがギリシャ政府に対し、莫大な財産と引き換えにオリンピアの発掘権を要求してきたのでした。執拗にギリシャ政府に食い込もうとするシュリーマンをクルティウスはもはや無視できなくなります。オリンピア発掘権をめぐって戦わねばならない相手となります。ギリシャ政府はオリンピア発掘権を最終的にはクルティウスの側に与えますが、その後でも何とか発掘権を奪い返そうと奔走するシュリーマンにクルティウスはほとほと手を焼いたようです。
 もっともギリシャ政府は、オリンピアの発掘権をクルティウスに与える代わりにシュリーマンにはミケーネの発掘権を与えることになります。発掘権が与えられてもギリシャとプロイセンとで政府間の協定が必要なクルティウスはすぐには発掘を始めることはできません。一方、シュリーマンは自らの財産をもって発掘可能なため、ミケーネの発掘をさっさと始めてしまいます。そして、今回も見事にミケーネ文明を発掘してしまい、黄金のマスクである「アガメムノンのマスク」を発見してしまうのでした。

 私は、オリンピア、デルフィ、エピダヴロス、ミケーネと何度も遺跡を訪れたことがあります。そのたびにこの発掘や発見に纏わる物語を胸に感動に浸って見学したものです。古代へのロマンと一言では片付けられない、特別な思いで。

 ところが、2009年2月14日付朝日新聞夕刊にでた記事には頭をガーンと殴られたようでした。それは、シュリーマンの発掘・発見の業績を疑うものではありません。トロイアの発掘やミケーネ文明の発掘は考古学的に金字塔であることには変わりはありません。この記事には、7歳の時にトロイア戦役のお話を真実と信じ、その後の人生はすべてこのためにあったと私も信じていたシュリーマンのお話は、実は「創作」らしいというのです。
シュリーマンの研究者たちが発掘に至るまでの彼の日記や手紙には幼年時代の思い出などは一切出てこないのだそうです。仕事をしていたころも商売の話が中心なのです。研究者たちの結論は、「トロイアの発見を、より劇的なものにするために、7歳から一貫して思い続けてきた、と後年になって創作した」というものでした。
すると、「古代への情熱」第1章に再録された「イリオス」のはしがきであった「少年時代と商人時代」をあえて「発掘報告書的な学術書」に無理無理入れなければならない理由が首肯できるのでした。アカデミズムの人間からすれば、学問的背景がないシュリーマンが次々と発掘に成功して考古学の世界史を書き換えていく様は不快に映ったのでしょう。シュリーマンには敵が多かったのも首肯できます。

7歳の時に思いこんだお話を史実として実証するという部分が創作だったとしても私のシュリーマンへの賛辞はまったく変わりません。学閥とは無関係に独学で二つも大発見するなんて、とても素敵じゃありませんか。
ここだけの話ですが、今でも学閥に苦しめられている在野の研究者がいるのですから。

2013/01/25

5 奈良大仏の公慶(こうけい)さんとシュリーマン自伝(前篇)

「シュリーマンみたいな人だなぁ。」これが公慶という名の僧侶の大仏様復興、大仏殿建立に纏まつわるTVを見ての感想でした。東大寺大仏殿には何度も足を運びましたが、その歴史には注目したことはありませんでした。現在我々がお参りできるのは、公慶さんのお陰であることをこのTV番組で知りました。そして、シュリーマンがなぜか想起されたのでした。シュリーマン(1822~1890)とは、トロイア戦争(トロイの木馬で有名)のお話を7歳のとき聞き、しかもそのお話を真実と信じ、いずれ発掘してみせると言って、後年本当に発掘して歴史的事実を証明した人物です。

 まずは公慶さんのお話から。出家した公慶は14歳の時に、あちこちが傷み、しかも野外で雨に打たれる大仏様を見て涙します。自分には傘があるのに、大仏様にはない、と。いつか大仏様を修復し、大仏殿を建立して雨が降っても濡れることがないようにしようと、心に秘めたのでした。そして公慶37歳の時(1684年)、江戸幕府に願い出て大仏様修復のための寄付を集めることを許されます。全国行脚に出た公慶はたとえ少額でもいいからと人々に対し寄付を集めに歩き回ります。これを「勧進」と言います。大仏様修復の一念に勧進して歩く姿に人々も動かされ始め、お金が集まってきます。

 1692年ついに大仏様の修復を終えることができた公慶は、さらに大仏殿建立のために勧進し続けます。粗食に徹し、「臥して寝ず!(横になって寝ないこと)」の構えの公慶は無理がたたり、からだを壊してしまいます。が、それでも勧進し続けた結果、1709年には大仏殿建立が成し遂げられました。しかし、その日を見ることなく公慶はその4年前に亡くなってしまったのでした。
 公慶堂とは、公慶が研鑽を重ねた寓居であり、公慶堂からは大仏殿が眺められるように「道」が出来ているのです。これでTVは終わりました。

 さて、シュリーマンとはどんな人物だったのでしょうか。私がシュリーマンを知ったのは、岩波文庫「古代への情熱―シュリーマン自伝―」(昭和47年の第27刷)によってでした。この文庫の帯には、「トロヤ戦争の物語を読んだ少年が美しい古都が地下に埋もれていると信じその発掘を志す。努力の年月を経て彼の夢は実現してゆく。」とあります。
 幼い頃に読み聞かされた物語、ホメロスの叙事詩「イリアス」で綴られたトロイア戦争、その古代の城跡はきっとどこかに埋もれていると信じ込み、いずれ発掘してみせると決意した少年は、勉学に励みに励み、商売で大成功をおさめ、成した財を糧についにトロイアを発掘してしまったのでした。

 このことは単に発掘したにとどまりません。ホメロスの叙事詩が作り話ではないこと、ギリシャ文明より古い文明はないと考えられていたがそうではないこと、考古学上の大きな発見といえること、を指摘できます。当時のいかなる学閥も持たず、しかもほとんど独学で成し遂げたといえます。
 その後は、ミケーネ文明の存在も発掘してしまいます。在野にあってこの華々しい発見の連続はシュリーマンの名を世界に轟かせたのでした。

 公慶さんの話とシュリーマンの共通点は少年時代の思いを持ち続けて、努力の末についに成し遂げたというところでしょうか。

 「古代への情熱―シュリーマン自伝―」に戻します。7章から成るこの書は厳密な意味でいわゆる「自伝」ではありません。この第1章、少年時代と商人時代(1822-1866)は、シュリーマンが60歳の時に書いたものですが、残りの6章分はシュリーマンの死後(1891年)、「未亡人の委託によって第三者であるブリュックナーがシュリーマンの諸著書のなかから巧みに引用して、彼の学問的業績とともに、彼の人間としての成長をしめしたもの」(訳者村田数之亮)なのです。
 そして、もともとこの第1章は、シュリーマンの著書「イリオス」(1881年刊)のはしがきなのです。この「イリオス」は「発掘報告的な学術書」の性格を持つようです。そうした本になぜ「自分がへてきた波瀾にとんだ生涯をしみじみと懐かしそうに回顧したもの」を含めたのでしょうか。
 訳者村田さんは、シュリーマンには単なる回顧を超えた積極的な意図があったとみています。当時、シュリーマンは事業で大成功をおさめ、その財で大掛かりな発掘を仕掛け、しかも大成功をおさめていましたが、一方で多くの根強い反対者も抱えていました。そのため「自分の学問への情熱と苦行とを示して、自分の学問的信念のなみならぬ深さと根底とを知らせようとした」のではないか、と。

 14歳で学校を終えたシュリーマンは働き始めますがそれはもう苦難の連続で、しかしトロイア発掘の夢は捨てず、寸暇を惜しんで学び続けます。最終的には10数ヶ国語を自在に操れるようになり、商売も成功してゆく様をこの第1章で、41歳で一切の事業から手を引くまでが描かれているのです。
 1871年から73年にかけてトロイアの発掘に成功したシュリーマンは大きなミスを犯してしまいます。それは、発掘最終年度に出土遺物の目玉「プリアモスの財宝」をトルコから持ち出してしまったのでした。トルコ政府から訴えられたシュリーマンはもはやトルコ領土内での発掘は不可能となってしまいました。そこでシュリーマンが次に目を付けたのがオリンピアの発掘でした。
 

2013/01/18

4 吾輩はてんとう虫である。名はまだない。

 ナンフェスのシンボルはてんとう虫です。山田武彦氏の手になるこのシンボルはあちこちで増殖を始めているようです。その第1号は、東京女子医科大学IBDセンターのスタッフバッチです。そのバッチはセンター外の人々にも好評で希望が寄せられているとか。
 このナンフェスのシンボルを商標登録しようとして調べましたら実にたくさんのものがありました。みなかわいらしい、そしてシンボリックなもの、個性的なもの、擬人的なもの、いろいろありますね。
 さて、今回の標題は、かの夏目漱石の「吾輩は猫である」から拝借したものですが、その心は是非これに名前をつけてみたいと思ったからでした。いかがでしょうか。
 ずっと昔、パンダが上野に初めて来た時に名前の公募がありましたね。生きものだけではなく、建築物や場所にも本来の名称の他に愛称があります。

 それでは名前を巡るお話にちょっとお耳を、いや目を拝借します。
 新聞投書欄にあったお話です。名前でからかわれていやだという投書に対するものとして、「明彦」と書いて「てるひこ」と読む方が書かれていました。この方も小さい頃から「照る照る坊主照る坊主、あーした天気にしておくれ!」とからかわれてこの名前を付けた親に対してどうして?との思いが消えなかったそうです。ですが、やがて成人し、教員となった明彦さんは、定年までの30数年間、運動会や遠足などの学校行事で一度も雨にあたって延期となったことがなかったのでした。定年後に振り返った時、「てるひこ」の恩恵を感じたというものです。
 田中角栄なる政治家の記憶も乏しくなりつつありますが、彼が「今太閤」として学歴がなくとも日本の総理大臣となった頃に生れたある子どもに、某田中さんちの両親は「角栄」と名付けたのでした。時が過ぎゆき、ロッキード事件で田中角栄さんが逮捕されるに及んでこの少年もいじめの対象となっていったのでした。耐えきれなくなった彼は家裁に改名を願い出ました。案外とあっさりと認められたのでした。

 「差別戒名」をご存じでしょうか?東京学芸大学書道科の畏友、橋本栄一さんの研究テーマの一つでもありますが、被差別者が死んでもそうとわかるように戒名にまで入れ込んだものです。何ともおぞましい話ではありませんか。
 日本人が好む「忠臣蔵」の主役である赤穂浪士のお墓は泉岳寺(東京)にあります。仇打ちに至る苦労や忠君の誉れも高く「赤穂義士」とも称されますが、彼らの戒名には全員に「刃」が用いられているとのことに何か釈然としないものを感じます。

 中国での話。瀋陽市では、名前が不明な孤児の姓はすべて「瀋」とする規則があります。名に使う文字も決まっています。2001年なら「中○」というように必ず「中」を用い、翌年だと「華○」というように。広州市では孤児の姓は「広」だけ、大連市では、「趙」「銭」「孫」「李」の4種類だけが使用可能となっています。

 台湾での話。台湾人は運が悪い、失恋した等で占師の勧めもあって簡単に名前を変えるようです。親からもらった名前という観念がないのです。が、愛のために姓を変えた女性の話題がありました。女性は施さん、そのお相手は鄭さん。
 17世紀の台湾の英雄 鄭成功という人と清朝の将軍 施琅とは不倶戴天の敵でしたから、鄭成功への思慕があついが故に今でも台湾では「鄭」さんと「施」さんの結婚はご法度と言います。
 そこで施さんは裁判所に母方の姓「林」に変えようとしたところ裁判官は「二人の幸せのために」認可したというものです。

 ところで、わが子に「悪魔」と名付け、役所に届けたところ受理してもらえなかった事件をご記憶でしょうか。この一件に対して言語学の田中克彦(一橋大名誉教授)さんが寄せた一文(「悪魔くんに思う」出典:岩波の「図書」の巻号は不明ですいません)が印象的でした。
 田中さんは、日本でせっかく「悪魔」くんが誕生しかけたのに父親が取り下げたのは、「日本社会における命名に際しての圧力がいかに大きいか」、「言語意識の特有性」を浮き彫りにしたと喝破しているのです。

 具体的には、モンゴル人の名づけから論拠を見出しています。例えば、「ネルグイ」さん。訳せば、「名無し」だそうです。何とも不思議な感じです。「フンビシ」という例も。これは「人でない」ということ。他にも、「誰でもない」、「うんこまみれ」、「悪い娘(ただし男性の吟遊詩人の名)」など。
 なぜそんな名前なのでしょう。田中さんは、「自然がきびしく、乳児の死亡率の高かったかつてのモンゴルでは、どんな魔物も決して近づいたり、ふれたりする気にはならないような名にしておこうという親の思いが込められていたのである」と解説します。
 モンゴルでも「チュトグル」つまり「悪魔」くんがいるのだそうです。田中さんの主張は以下の通りです。
 今回の件は、命名行為の著しい規範性と同調性である。名前はまずあまり変わっていてはいけない。社会的な期待と規範に合致しなくてはいけないという無言の圧力である。
 社会の期待と規範に合った名とは、いわゆる「いい子ちゃん」名前、すなわち、道徳に合致し、徳目を表示した名である。名というものは、モンゴルの例が示しているように、「いい名」が不幸を呼んだり、「悪い名」が守りになったりするという神秘的なものだ。それを日本では徳目にあわせて自己規制するように求められるから、ますますハンコで押したような非行性的で無性格なものになって行く。
 このことは、あらかじめ「いいことば」と「悪いことば」をきめておき、悪いことばは使わないようにしましょうという、お役所ふう差別語狩りのもう一つの面である。悪魔くんは、「おりこうさん」しか許さない、日本的サベツの網に敏感にとらえられてしまい、ついにその誕生を全うすることができなかったのである。
 
 はてさて、わがナンフェスの「てんとう虫」君の名前にはどんな物語が生まれるのでしょうか。

2013/01/12

3 「漢字の森深く」から

 私は漢字が好きである。お習字(書道ではなく)を長くやっていたからであろうか。「漢字の森深く」と題する連載(朝日新聞夕刊2009年11月25日?12月8日)があった。ニッポン人・脈・記シリーズの一つである。大変興味深い内容であった。簡単に紹介したい。

 画数のやたら多い漢字がある。例えば、「憂鬱」の「鬱」だ。ほとんど使わないものもある。「塩」の旧字体である「鹽」をあえて使う人がいる。理科ノートには「實驗」と書くという。実験ではなしに。「飯盒炊爨」だとおいしく感じるかもしれない。漢検1級に、しかも満点に挑み続ける人たちだ。

 漢字は東洋人だけのものではない。
ハンガリー生まれのピーター・フランクルは大道芸人でもあり数学者だ。12ヶ国語をあやつるも漢字と出会い、驚愕する。1982年初来日し、88年からは日本で暮らす。日本名「富蘭平太」を名乗る。「漢字は日本が誇るべき無形文化財なんです。」
1987年、フランクルは大道芸人の若者と出会う。トニー・ラズロ(アメリカ)だ。そう、彼こそ「ダーリンは外国人」の登場人物。妻よりはるかに漢字に詳しい。妻は小栗左多里。作者である。
そのラズロが尊敬するのはハルペン・ジャック(イスラエル)。14ヶ国語がわかる。「春遍雀來」と書く。妻ミハルは、美晴。長男バラキは、薔薇樹。長女ケレンは、花蓮。家族の名を織りこんだ漢詩まで詠む。

春遍く 雀來たらば
春遍く 美しく晴るる
春遍く 薔薇の樹咲かば
春遍く 蓮の花近し

詩人 三好達治はうたう。「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。」

書家 國重友美が「海」をくずすと「Sea」が見える。「英漢字」の誕生だ。そして、自身裸となり、薄い墨と顔料を塗って大きな紙にペタリ。男性版もと夫がペタリ。夫とは西村和彦、そう俳優だ。

書家 神田仁巳は「かんち人文字」を生んだ。漢字の中に顔がある。難病「多発性硬化症」の患者である。自身の病気と他の患者さんたちの完治を願い、命名した。

点字は1文字が1ます六つの点からなる。仮名やアルファベットが表せる。川上泰一は漢点字を考案した。1970年のことだ。川上は、1949年に農学校と聞いて行ってみた。しかし、盲学校だった。視覚障がい者の教育とは無縁の世界から来て、川上漢点字を完成させた。この漢点字との出会いを、鍼灸師岡田はこう表現する。「すべてが白黒から極彩色に変わったよう。」

「道」には「首」がある。なぜか。古代中国でよその氏族の土地を行く時にその首をはね、呪いの力によって邪霊を祓い清めたことに基づくという。中国文学者 白川 静は、甲骨文字や金文の意味や由来を解き明かし、漢字の成り立ちから古代を蘇らせた。

「障害者ではなく、障碍者と書けるようにしてほしい」豊田徳治の願いである。「害のある人と誤解されかねない」からだ。常用漢字表に「碍」はない。30数年前の韓国駐在時代に取引先から「韓国では障碍者と書く。日本ではなぜ害なのか」と問われ、答えられなかった記憶がある。息子が統合失調症となって初めて向き合った。

あなたの「しんにゅう((しんにょう)とも言う)」は、1点派それとも2点派?敗戦直後までの活字は2点だった。1949年、当用漢字の字体を決めた時、簡略化して1点に。が、常用漢字でないものは2点のまま使われた。そこにパソコンが加わる。パソコンならどちらでもすぐに出てくる。

漢字なんてやめてしまえ、と漢字廃止論は根強い。民族学者 梅棹忠夫は、戦中、中国から電報を打った。漢字を1字ずつ4桁の数字に変換して打電、受信側はその逆を行った。その煩雑さに「こんな文字と心中するのはまっぴらや」と思った。繁雑な漢字の体系が文化や教育の発展、情報の伝達を妨げていると考えた梅棹はローマ字運動に取り組む。

文章心理学者 安本美典は1963年に「漢字の将来」の中で「22世紀末には漢字は滅亡するであろう」と予測した。作家100人の小説100編を分析していたら使用されている漢字の数が時代とともに減っていた、からだ。20世紀初めの作品では39%だったものが、半ばの作品となると27%となっていた。
 このシリーズの最後は次の一文で結ばれる。
「一つの漢字に、たくさんの物語がやどっている。その森は深く、人を魅了してやまない。」

2013/01/04

2 なぜに徒然草読める・読めない

「つれづれ」の音に対し、漢字「徒然」がすぐに書けましたが、不思議さは否めませんね。使いもしない、肝心の本を読めもできないものをどうして書けたのでしょうか。また、「徒然」を「つれづれ」とどうして読めるのでしょうね。まぁ、かつて学校で習ったことがあると言えばそれまででしょうが、学校で習ったことのほとんどは忘れてしまっているのに。一度覚えた「泳ぎ」がずっと忘れないようなものなのでしょうか。

 読めた、書けたがどの程度意味をなすのかに対し、逆に読めない、書けないのはどうなのでしょうか。近年、大学生の「学力低下」が叫ばれていますように「読めない」「書けない」をここに帰結させてお終いにできるとは思えません。「徒然」を読めて書けた私も、先輩たちに比較すれば、はるかに漢字を知りません。また、その先輩たちでさえ先代に比較すれば読み書く漢字は相当減っているものです。

 文芸評論家の斉藤美奈子さんは「踏襲を『ふしゅう』と読んだ首相の日本語力。バカバカしいようで、じつは興味深い問題かもしれない。日本に生れ日本語で生活し、60年以上がすぎても、踏襲を『とうしゅう』と読めない人は読めないのだ。日本語を話すのと読み書きするのとは別の能力だからである。」と2008年の批評と題する新聞コラム<文芸時評>(朝日新聞2008年11月26日)に書かれていました。
麻生さんの漢字読めない事件と漫画好きとが妙に結びつけられたりしないか心配していましたら、案の定、山藤章二さんのブラックアングル(週刊朝日の最終頁にあります。この週刊誌を後ろから読ませる頁との噂あり。)で遊ばれてしまいました。2009年最初の号で百人一首の風情で。
「これはそのぉ ふしゅうと読んじゃ まちがいか 知るも知らぬも 漫画のせいだ」
(これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき)

 神戸女子学院大の内田先生は学生のレポートにあった「精心」の誤字にショックをうけました。そして、その後に「無純」に出会ってもっと大きなショックを受けたそうです。なぜなら、その学生さんは「無純」と書いた「むじゅん」を「矛盾」という正しい意味で使っていたからです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。内田さんの分析は、さえています(内田樹「下流志向」2007年講談社)。
多少の誤字なら誰にでもある。例として「顰蹙」をあげる。しかし、「矛盾」は日常いたるところで目にしているはず、なのに「むじゅん」と読まずに飛ばしてきたのか。「顰蹙」を正確に書けない程度のものとは異なる。すると、「矛盾」を「むじゅん」と読めなくとも書けなくとも平気で20年近く生きてきた学生は、その文字を読み飛ばしているからだ。つまりスキップしたわけだ。

しかし、人間というものは、そうしたわからないものを内在させ、維持し、時間をかけて噛み砕くはずなのに、そうした学生は、わからないものがあったとしても、気にならずに済ませることができるのではないか。さらに、やがてそうしたわからないものは、「存在しない」ことにしているのではないか。
 よく意味がわからないものがあっても特段不安や不快を感じることなく生きていられる。学びを何かと「等価交換」しようとしているのではないか。学ぶに値するか否かは自分が決定権をもっているかのごとく、自分の物差しだけで世の全てを測ろうとする。この判定の有用性は誰が担保するか。それは「未来の自分」だ。
 こうして「学びからの逃走」が始まった。捨て値で未来を売り払う子どもたちの大量発生を生み出している。

 いかがですか。内田さんのされた誤字体験は私にも日常的にあります。専問、講議、等々。その都度訂正してゆきますが、肝心の本人には届いていないなぁの実感があります。目の前で点数化されないことや「習っていないから」というエースを持っているからでしょうか。それが集団化されますと自覚もされず、もはや敵なしとなってしまいます。

 最後に「鬼籍」のはなし。ある若い女性が鬼籍に入ったとの報を受けて、年配者のグループは「おかわいそうに。」と、若い層も「おかわいそうに。」との同じ反応。若い層に聞けば、だってあの娘はあんな怖い姑のいる家に嫁いだんだから。そうか、鬼籍とは、「鬼婆のいる家の籍に入る」と捉えていたんだ。