2013/03/15

9 一人勝ちの思想 (前篇)

  現代は二分法が人気である。状況の要因分析の結果、2大要因に集約し、さぁどっちだ!と迫るやり方である。大学センター試験を通じて、正解を選ぶのにはたけた人が多いからであろうか。入学試験には正解があるだろうが、状況には正解がない、のである。なのに、どちらかを選ばせるのは理不尽ではなかろうか。

 現代の最たる二分法のそれは、「勝ち組」と「負け組」ではないか。時間を横軸に生産性を縦軸に効率という名の王様がすべてのものを二分してゆく。短時間にできるだけ多くのものを記憶し、それを試験時間内に正しく再生する能力こそが人間の価値を決めるのが現代だ。それが正しくはないと知りながら、社会の全ての仕組みはこれによりかかっている。それは、楽だから、だろう。何よりも組織外から追及された際の免罪符となるからだ。

 グローバリゼーション(アメリカナイゼーションと同義)が「勝ち組」と「負け組」の二分を加速する。ローカライゼーションを標榜しても、所詮「負け犬の遠吠え」程度の役割は果たせても、それ自体での自立にはつながらない。その理由は、思想がないからだろう。アンチ・グローバリゼーションしか拠り所がない。

 近年、グローカライゼーションという言葉がちらほらしてきた。グローバリゼーションとローカライゼーションの合体語である。
 その一例が紹介されていた。某大手電機産業の戦略でもあるが、電気製品を自社の基準で製作して売るパターンから、それぞれの地域で必要とされる機能や不要なものを排除して現地で受け入れられやすいように製品を改変してゆくやり方である。世界中に同じものを供給する大量生産大量消費の時代からの変化である。

 現代を支配する思想は、「一人勝ちの思想」である。「共生」がその対極にある。
 ソ連の崩壊に代表するまでもなく、共産主義や社会主義に基づく国家は長続きしない例が多いことから、こうしたイデオロギー自体に欠陥があると思われているようである。本当にそうだろうか。イデオロギーと現実の政治は必ずしもイコールではないものだ。
 なら、資本主義はいいのだろうか。アメリカと言う歴史上初めての単独超大国を生み、経済至上主義の中で生まれたものが「一人勝ちの思想」だと考えるのは穿ちすぎであろうか。貧しいことはだれも望まない。自由は貴重である。だが、その中から貧富の格差が生まれているのだとしたら考えねばならない。が、問題はそうだとしても現実はもはや修正不能状態のようにも感じられてならないのではないか。

 オリンピックを見てみよう。4年に1度のこの世界大会は、政治や経済に及ぼす影響から言っても過去と比較にならないほど大きなものとなっている。参加国・地域の数や参加人数の増大は言うに及ばず、観戦者の数から来る経済効果に加え、情報としてのメディアの役割、ニュース性、開催地の印象等、多方面から世界中の注目を集めることができる。
 だから、スポーツにおける巨大なマーケットを形成し得る訳である。開催地の権利を得るために各国各都市の招致委員会は巨大な費用をかけて長期間準備をし、招致合戦を繰り広げるのだ。開催地は各国のIOC委員の投票によって決まる。
 同一都市が何回も立候補し、何回も開催地となりうる。つまり、もはや巨大化してしまったオリンピックは、経済的に豊かな地域でしか開催することができないようになってしまったのである。
 だから、開催地の権利を獲得した都市は、多くの経済効果を見返りとして得ることによって、また、その他多くの教育的な効果やインフラの整備などの効果を得ることによって招致のための諸活動、諸費用が免罪される。
 招致に敗れた都市のそれには何もない。
 地球上にはたくさんの国々、地域がある。オリンピックが4年に1度では世界の国々、地域には回りきらない。大陸毎に分けたとしても未だ開催していない大陸すらある。