2013/02/22

7 ナンフェスの夢 (後篇)

  ナンフェスはバリアフリーな社会を望みます。ノーマライゼーションを目指します。しかし、そうしたことを声高に叫ぶ団体ではなく、「しなやかに、あかるく、わかりあう、せかいをつくる」団体です。また、ナンフェスはそれ自体が増殖可能な、自由な存在として、活動を通じて社会に発信し続けたい、とも考えています。
 
 そんなことを考えているときに、ふとある日の投稿記事が目に飛び込んできてくれました。「日本映画 聴覚障害者のために字幕を」(2007年4月6日朝日新聞「私の視点」欄)です。かつて切り抜いていたものを失念していたようです。野林さんという方の投稿です。

 最近の日本映画は、元気があっていい。映画ファンの私にとっては、この上ない喜びである。しかし、喜んでばかりではいられない。外国映画には当たり前の字幕が、日本映画にはないからだ。私たち聴覚障害者にとっては上映中の映画の内容がわからず楽しめない。他の人々が笑ったり、涙ぐんだりしていても、ただ何となくしか理解できないもどかしさがある。
 映画館によっては、字幕付きの日本映画を上映してくれる時もある。また、聴覚障害者情報センターのホームページでは、字幕上映の映画館や日程を紹介してくれている。
 ただ、ひとつの地域で上映されるのは、たったの2日間くらいがほとんどだ。それも一部の日本映画だけである。この上映時期を見逃せば、しばらくは見ることができない。
 後はひたすらビデオライブラリーに入荷するのを待つか、DVDの発売を待つことになる。DVDも日本映画の場合、すべてに字幕が付くとは限らない。(中略)
 年末の障害者週間に合わせて映画を上映するところもあるが、日本映画には残念ながら字幕がないものがほとんどだ。字幕を付けてほしいと要望したこともあるが、願いはかなっていない。(中略)
 長い人生の途中で聞こえにくくなった人は、なによりも文字による情報保障が一番うれしい。
 映画の字幕だけでなく、コミュニケーション支援の要約筆記者による援助など、文字による情報保障が十分になされるのが当たり前の世の中になってほしいと願っている。

 野林さんに指摘されるまで私は全く気がつきませんでした。
 弁解ではありませんが、私はかつてランニング学会の理事長としてすべての口頭による学会発表に手話通訳を付けたことがありました。2年間の任期でしたが、経費がかかること、手話通訳を必要とする者がいるのか、の2点で私の任期が終わりますとなくなってしまいました。同時にベビーシッターも用意しておりましたが、こちらも同じ運命となりました。

 そして、いま聴覚障害の学生が私の授業を履修しています。二人のノートテイカーが大変苦労して私の講義をPCに書き取っていますが、専門用語やらカタカナ語やら、私の早口などで件の学生さんに伝わりにくいもどかしさを味わっています。私の方も専門用語をあらかじめタイプしたり、板書しながら、繰り返し同じことを説明したり、と工夫してはいますが、隔靴掻痒の感が免れません。

 障害学の本を読みましたときに、二つの障害の概念を整理していました。一つは、インペアメント(身体の物理的状態としての障害、この例では聞こえないこと)ですが、もうひとつのディスアビリティの概念を知ったときに、正直頭を殴られたように思いました。それは、ディスアビリティを「インペアメントを理由に当事者から様々な可能性を剥奪する社会のしくみ」と定義していたからでした。
 障がい者スポーツを考えるときに障害学からの視点で考えねばならないと思いました。ここからナンフェスの夢が生まれるかもしれない、と感じています。