2013/02/01

5 奈良大仏の公慶(こうけい)さんとシュリーマン自伝(後篇) 

 オリンピアはギリシャ、ペロポネソス半島北西端にあり、古代オリンピック開催地として知られます。1766年、リチャード・チャンドラーはオリンピアの遺跡を発見しますが大量の土砂に埋もれたオリンピアの全貌を明らかにすることはできませんでした。1875年から本格的なオリンピア発掘が始まりますが、それを指揮することになるエルンスト・クルティウスにとってシュリーマンこそが目の敵となったのです。ドイツアカデミズムの王道を行くクルティウスにとって何ら学閥的背景を持たず、独学で発掘をしてしかも大成功をおさめ、その資金も自らが稼いだ財をもって充てるシュリーマンは受け入れがたい人間でした。

 そのシュリーマンがギリシャ政府に対し、莫大な財産と引き換えにオリンピアの発掘権を要求してきたのでした。執拗にギリシャ政府に食い込もうとするシュリーマンをクルティウスはもはや無視できなくなります。オリンピア発掘権をめぐって戦わねばならない相手となります。ギリシャ政府はオリンピア発掘権を最終的にはクルティウスの側に与えますが、その後でも何とか発掘権を奪い返そうと奔走するシュリーマンにクルティウスはほとほと手を焼いたようです。
 もっともギリシャ政府は、オリンピアの発掘権をクルティウスに与える代わりにシュリーマンにはミケーネの発掘権を与えることになります。発掘権が与えられてもギリシャとプロイセンとで政府間の協定が必要なクルティウスはすぐには発掘を始めることはできません。一方、シュリーマンは自らの財産をもって発掘可能なため、ミケーネの発掘をさっさと始めてしまいます。そして、今回も見事にミケーネ文明を発掘してしまい、黄金のマスクである「アガメムノンのマスク」を発見してしまうのでした。

 私は、オリンピア、デルフィ、エピダヴロス、ミケーネと何度も遺跡を訪れたことがあります。そのたびにこの発掘や発見に纏わる物語を胸に感動に浸って見学したものです。古代へのロマンと一言では片付けられない、特別な思いで。

 ところが、2009年2月14日付朝日新聞夕刊にでた記事には頭をガーンと殴られたようでした。それは、シュリーマンの発掘・発見の業績を疑うものではありません。トロイアの発掘やミケーネ文明の発掘は考古学的に金字塔であることには変わりはありません。この記事には、7歳の時にトロイア戦役のお話を真実と信じ、その後の人生はすべてこのためにあったと私も信じていたシュリーマンのお話は、実は「創作」らしいというのです。
シュリーマンの研究者たちが発掘に至るまでの彼の日記や手紙には幼年時代の思い出などは一切出てこないのだそうです。仕事をしていたころも商売の話が中心なのです。研究者たちの結論は、「トロイアの発見を、より劇的なものにするために、7歳から一貫して思い続けてきた、と後年になって創作した」というものでした。
すると、「古代への情熱」第1章に再録された「イリオス」のはしがきであった「少年時代と商人時代」をあえて「発掘報告書的な学術書」に無理無理入れなければならない理由が首肯できるのでした。アカデミズムの人間からすれば、学問的背景がないシュリーマンが次々と発掘に成功して考古学の世界史を書き換えていく様は不快に映ったのでしょう。シュリーマンには敵が多かったのも首肯できます。

7歳の時に思いこんだお話を史実として実証するという部分が創作だったとしても私のシュリーマンへの賛辞はまったく変わりません。学閥とは無関係に独学で二つも大発見するなんて、とても素敵じゃありませんか。
ここだけの話ですが、今でも学閥に苦しめられている在野の研究者がいるのですから。